あかんたれブルース

継続はチカラかな

自分の子供は無理だけど、他人の子供なら

情動の知性(5)コミュニケーション能力(廿五)



 どうも私の言葉足らずから混乱を招くのか
 話の理論が飛躍してしまっているのかもしれない。と悩んでおります(汗)。

 番外でお茶を濁していましたが、一旦再確認としてお店を開きます。

 まず、KYの件に関して、

 昨日のエコさんのコメントがいい指摘でしたね。
 「いまどきの子供らが使うKYとはかなりレベルの違う」

 これです。

 空気を読む云々の話以前に、次元が違うこと。
 それを普遍的な捉え方をするから無理が生じるのではないでしょうか。

 たとえば、武道(芸事・技術職含め)での「守・破・離」を
 子供にあてはめてしまうから混乱してしまう。
 うちの剣友会の会長がその罠にはまってのたうち回っていますよ(汗)。

 会長の基本姿勢は「試合の勝ち負けよりも、まず基本である」なのに、
 そのかにも「守・破・離」は必要ってなるから矛盾がおきる。
 小中学校に「破・離」なんて必要ありません。

 
 パンの話と豊かさのについて。

 分け与えることができればそれでいいのです。
 
 ひろさちやが言わんとしたのは日本人が政治的解決から経済発展によって
 豊になってエスカレートする欲望の罠に陥ったこと。

 私は、その風潮のなかに抵抗感を感じる
 豊で優しすぎる脆弱な感性のものたちの存在を表したかった。

 そのなかで分けられるとかはその環境の問題なのであまり関係ない。
 分けられる工夫や交渉ができる人には理解できないかもしれませんが、
 それが出来ないから人が多すぎるから大問題なのです。

 話をもっと混ぜっ返しましょう。

 豊かさや貧しさにもレベルや次元があります。

 たとえば、よくアフリカの飢餓に瀕する子供達の映像に心を痛めますよね。
 子供はガリガリだ。
 でも、親は結構食べている。
 日本の感覚だと、非道い親って思うかもしれない。
 私の親の世代は戦中派だからその貧しさ知っている。
 だから煩悩とわらってそれでも子供に自分の分まで食べさせたいと言ってました。

 けれども、そこに貧しさのレベルの差があります。
 アフリカの父さんと母さんが非道いいんじゃない。
 そうしないと親ガメ転けてみな転けたになっちゃう。
 彼らが働けなくなるとそこでアウトなんですね。

 その意味で、まだ記憶にある日本人の貧しさは救いようがあるんでしょうね。
 中国では昔、その飢餓状態の貧しさから子供を交換しあったといいます。
 自分の子供はどうにも喰えないから交換して他人の子供を喰うわけです。
 話が究極になるとここまでいきますしね。

 それでも、ある程度の貧しさは幸いです。

 そして、ある程度の豊さもいいでしょう。

 けれども、どんなものにも裏表長短はあります。

 平等に分けることに不平を持つ者は出てくる。

 俺の方がたくさん働いているのになぜ奴と同じ分け前なんだ。と

 そこに差を付けられれば、
 同じ貰う権利があるのになぜ奴よりも少ないんだ。と

 とくに、余分な3つめパンにはその意識が働きやすい。
 また、そういうことで悩んでしまう自分に嫌悪を感じてしまう場合もあるでしょう。

 そういった状況で、くらもちふさこは「苦手だな」と呟くのです。

 それは、そういったことが表に出てしまわないかという危惧と
 相手に思われてしまうのではないかという恐れなのかもしれない。

 これも豊かさの産物であり、
 良識派が駆逐されていく要因になっていったのではないかと私は考える。

 そういう意味で戦後の教育や社会通念とか価値観には
 大きな穴が空いてしまっていたのだと思います。
 それを豊かさだけのせいにはできないの充分理解したうえで、
 そこに大穴が空いていたのだと感じてしまいます。

 工夫や交渉ができる人は問題ない。
 それが出来ない人が多くなりすぎていることが問題なのです。