コミュニケーション能力(マー君の場合- 番外メルヘン)
放課後の六年三組の教室で伊地知君は今日も居残りです。
担任の乃木先生が彼を見守っている。
伊地知君の答案用紙は、汚い。消しゴムを忘れて唾で消しているので、穴だらけ。
最後の回答欄には( 三日 )と記されています。
「伊地知、できたか?」
優しく乃木先生が伊地知君をのぞき込むと、彼はコクリと頷きました。
その答案用紙を乃木先生が手にとって見ていると、
教室の校庭側の窓から秀才クラスの井口君と松川君が伊地知君をからかっています。
伊地知君はキッとなって闘志を燃やす。乃木先生は気づきません。
「よし、いいぞ」そう云って乃木先生は伊地知君の頭を撫でました。
でへへ。ずるずる。伊地知は満足そうに洟をすすって笑みをこぼすと、
もの凄い勢いで教室を飛び出していきます。
いつからなのか教室の後ろの出入り口で二人を見ていた学年主任の児玉先生と
ぶつかりそうになります。
ひらりと児玉先生は伊地知君をかわしたけれど、
伊地知君はいちもくさんに校庭に走っていきました。
「乃木よ、伊地知はどうだ?」
教室に入ってきた児玉先生は乃木先生から伊地知君の解答用紙を譲り受けます。
穴ボコだらけの汚い藁半紙。
児玉先生はしかめっ面になりました。なんて書いてあるか読めません。
「伊地知はよくやってくれている」乃木先生が静かにこたえます。
この陸之小学校(校長・大山巌。理事長・山県有朋)では
全校生徒一丸となって南満州中学への受験方針をかためていましたが、
姉妹校の海之小学校の懇願で急遽、旅順中学にも生徒を派遣することになりました。
それを担当することになったのが乃木先生の三組です。
乃木先生と児玉先生は夕陽に赤く染まる校庭を眺めながら、無言でたたずんでいました。
その二人の目の届かない校舎の裏では、
伊地知君が井口君と松川君にボコボコにされています。
真っ赤に染まる伊地知君の顔は夕陽のせいではありません。
涙と洟と涎で、伊地知君の顔はぐしゃぐしゃです。
夕陽が沈みます。