いま母は妹と京都に行っています。二泊三日の京都の小旅行。
妹には悪いけれど、静かで平穏な時間を取り戻している私。
昨夜、心配していたほど寒くはないと電話がありました。
大腸の手術をしてから年に4回、そして3回の術後の検査もあと一回でおしまい。
母は、それを目的に上京してくることを何よりの楽しみにしている。
いつの間に歳を重ねたのか今年で80歳を向かえます。
それと平行して老いは確実に彼女を子供に帰していく。悲しい。
とても我が儘に、その親切の押し売りは拍車がかかっています。苦笑い。どころじゃない。
あれだけ金柑漬けはいらないと言ったのに(涙)。
翻弄される妹と私。一歩も二歩も引く妻。
それでも彼女の笑顔や喜びをみると嬉しいのです。
想い出、その記憶は過去のある一瞬を切り取って脳裏に刻まれています。
それとも心のひきだしにしまわれていると言ったほうがいいのでしょうか。
映像として、オムニバス映画のように。
そして、その時の感情もサウンドトラックのように、深く焼き込まれている。
時間の経過とともに奥のほうにしまわれていった想い出が
なにかのはずみに上演されるときがありますよね。
18歳の夏休み、はじめての帰郷。
父親と取っ組み合いの喧嘩になって、
予定を一週間くりあげて東京に戻ることにしました。
本当はね、田舎の生温い澱んだ空気が嫌だったんです。
時間が止まっているようで、嫌だった。
早く東京に「帰り」たかった。
母がバス停まで一緒に来て、見送ってくれました。
窓から見下ろす母はとても小さい。
発車するまでの時間がとても長く感じられました。
エンジンがようやくかかり、母を再び見ると泣いています。
顔を濡らして泣いている。
悪いことをしたなあと思った。それがそのまま焼き付いて、残されてしまった。
ときどきそれが何かの拍子によぎるのだ。
子供のように喜ぶ笑顔の母とは別に、もうひとりの母が泣いている。
30年もずっと同じ場所で、あのバス停で私を見つめて泣いている。
非道い!