『血槍富士』から「槍」の話の続き。
戦国時代は槍一筋で槍働きで一国一城の主を目指した者達も多かったことでしょう。
その代表選手をピックアップすれば「笹の才蔵」こと可児才蔵。
この笹とは、関ヶ原の合戦のおり、可児才蔵が青竹を指物(旗印・標識)にして、
討ち取った首にその笹をくわえさした(もしくは首の断面に挿した)ことから。
すごく合理的ですね(汗)。
討ち取った笹首、なんと17体!
しかし、日本のこういった風習(敵の首を斬る)は南方の首狩り族みたいですね。
インディアンは頭の皮を剥ぐ。インディアン嘘つかない(汗)。
さて、この可児才蔵は宝蔵院流槍術を会得していたそうです。
ちゃんと学んでいたんですね。この時期としては立派。
それでも、槍一筋で首を狩ってもたかが知れてます。
可児才蔵の天下無双の働きでも千二百五十石。
これが限界なんですね。それでも大したものだけど。
槍一筋の可児才蔵。彼のキャリア・経歴というか転職プロフィールが面白いです。
最初に使えたのは斉藤龍興(道三の孫)。こりゃダメだ(汗)。
次が、朝倉義景。こっちも信長に滅ぼされてしまう。才蔵は信長方に寝返っていますが。
柴田勝家についで、明智光秀に仕える。その次は、
織田信孝(信長の四男で秀吉に敗北して自害)。その次が、
豊臣秀次(秀吉によって粛正された)。その次は、佐々成政。で、福島正則かな。
どうです、みんな非業の死を遂げた親方(館)さまばっかりですね(涙)。
しっかし、凄まじいトラバーユ歴だ。
戦国武将がその利害や気分によって主君を替えたのは知られていますが、、、。
やっぱり、腕におぼえ有り。なんでしょうかね。
まっ、才蔵には才蔵の美学があったと思います。
明智光秀に仕えたときの天下分け目の「山崎の戦い」では光秀の影武者として、
敵を引きつけていたそうですから、単なるお調子者とか合理主義者じゃあ、ない。
この間の記事で、「美しく生きる」美学の提唱をしましたが、
それは原則論的でストイックなものじゃない。
どうしても真田幸村とか、大谷刑部なんかの滅びの美学に奔りやすいものです。
ま、それはそれでいいのだけれど。
自分が納得できる生き方。ということなで、その点を、
槍の話と笹の才蔵の生き様をふまえて、ご参考にして頂ければ幸いです。