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現実主義者を自認する者達は「情け」を否定します。
どうも情けは知性に欠けるような扱いを受けている。
未熟者のレッテルを貼られて久しい。
情けは知的ではないのだろうか?
そんなことをうすぼんやりと考えて、ここは厠のどまんなか。朝のお勤め。
目の前に進研ゼミ小学講座「ひと目でわかる!5年生漢字ポスター」があったりする。
その下段にラッキー部首アドバイスだあって、「情」の「小」(りっしんべん)の解説。
「心の動きや働きを表す」とあります。
そうすると青い心の動きが「情(け)」ですかね。
あれ? じゃあ「君、青いよ」というのは言葉は、未熟者を指すのではなかったのかしらん?
いや、そうじゃない! 朝っぱらから馬燃える。
「 青はこれを藍より取りて、しかも藍より青し 」
荀子の原本では「青は藍より出でて」じゃないそうです。↑こっちが正しい。
最近の季節は花々の美しさもさることながら、新緑がまぶしいですね。
日本人の青の概念はこの緑もふくんでいます。
目が悪いわけではありません。日本人はとっても目が良いのですよ。欧米人と比較して。
目の良い日本人が青と緑を一緒にした。
花札の「あおによし」は「青丹よし」と書きます。丹は青の対極にある赤です。えんじ色。
何がよいかというと、はっきりして疑う余地なし、だから。
それを考えると、いまの世の中は青丹がはっきりしてませんね。
藍濁を合わせてドロドロの水彩絵の具の筆洗いの桶のよう。
この「出藍」の故事には純粋と同時に、新しい自分の意味があるそうです。
人間は「青」から練られて「藍」に変わるのでない。その逆であると。
青は新しい自分。藍は古い自分。
青は洗練されていて、藍は素朴な自分なのだと教えている。
自分を変える。自己改革。これが青だとすれば、青臭いという言葉は間違っている。
そして、青い心の動きである「情」という言葉のニュアンスも
違ってくるのではないでしょうか。
目に青葉 山不如帰 今夜の肴は初鰹 朝の厠で馬嘶く ヒッヒーン!