あかんたれブルース

継続はチカラかな

弁当屋と雲と牛

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。。


 
 実は、浪花節のCDを20枚ぐらい持ってます(汗)。

 一昨年の正月にダイソーでみつけて集めだしたらたまってしまった。たまんない(汗)

 山口組の二代目山口登は広沢虎造の興行のもつれから籠寅一家に刺されて、
 それがもとで死んでしまいます。そして、三代目を田岡一雄が継ぐ。

 吉本興行の用心棒をしていた山口登はその伝手で浪曲興行権を手に入れた。
 事件が起きた昭和15年頃は浪花節の黄金期だったようです。

 私たちが幼い頃もよくテレビで放送されていました。

 この浪花節が寄席に登場するようになったのは
 明治の初期(明治六年)頃だったいいますから比較的新しいんですね。

 最初はお経を節回しをつけているところから始まったと聞きました。

 この新参者の浪花節浪曲)は当初は落語や講談に比べて軽く見られて
 肩身が狭かったそうですね。それを一躍世に広めたのが桃中軒雲右衛門という名人でした。

 この「桃中軒」とは沼津の弁当屋で、
 ここの主人が師匠の女房と駆け落ちした雲右衛門をめんどうをみてくれた。
 その恩を感じて桃中軒と名乗ったという、まさに浪花節のようなお話。

 さて、名人桃中軒雲右衛門に一人の男が弟子入りします。

 その名を宮崎滔天

 熊本の人で、兄は八郎さんといって西南戦争で死んだ活動家。
 「泣いてルソーを読む」が有名。

 その偉大な兄に触発されて、宮崎滔天も生涯を革命に奔走するのであります。

 その革命とは中国。当時の清国ですね。満州民族から漢民族の解放独立がその志。
 孫文がもっとも頼りにした日本人がこの宮崎滔天だ。


 しかし、この時の滔天は身も心もボロボロ。
 フィリピン革命に武器を搭載して出航した福引丸事件で裏切られ仲間からの信用も失い。
 シオシオノパー
 まあ、革命家、志士として挫折したわけです。

 滔天の自分探しの旅は、自分の大好きな浪曲師になることで手を打ちます。
 
 これが、下手でして。客が怒ったといいますから、横好きだったんでしょうね。

 1年半でまた挫折。結局、革命家の道に戻って、辛亥革命は成功する。
 中国人はもっと日本人に感謝すべきだね。

 滔天は浪花節みたいな人で人情家でした。
 そのぶん失敗もおおくて、なかでも酒の失敗が多かったようです。
 杉山茂丸頭山満も酒は飲みませんからね。
 でもとっても人間味ある人でした。好きですよ。

 どっちかっていうと孫文に利用された感もありますが、そこが滔天らしくていい。

 そういう意味では師匠にあたる桃中軒雲右衛門も浪花節を地で往く人でした。
 駆け落ちした師匠の女房っていうのが、この旦那から虐められてまして、
 それがもとで手に手をとっての逃避行。

 夫婦になって先立たれてしまいますが、その通夜の晩、添い寝して泣き明かしたといいます。

 三人目の妻が死んだときは二人入れる棺桶をこしらえて
 冷たくなった妻を抱いて一晩中泣いていたといいます。

 雲右衛門は44歳の若さで肺結核を患い亡くなりますが、
 重体になって運ばれたのは滔天の家でした。
 ここで、かつての弟子に看取られるように、その人生に終止符を打ちます。

 滔天が弟子入りしたときに雲右衛門はこう言いました。

 「君は僕から芸を学べ、僕は君から知識を学ぶ」

 こん弟子は出来が悪くてものにはなりませんでしたが、
 滔天(鈴木天眼なども参加)が書き残した「南部坂雪の決別」「赤垣源蔵徳利の別れ」など
 哀調あふれる七五調の美文名文句は浪花節をひとつの芸術に仕上げた。

 雲右衛門と滔天。そして沼津の弁当屋「桃中軒」

 因みに、宮崎滔天の芸名は桃中軒牛右衛門。

 雲と牛

 浪花節。だよね、人生は〜♪





写真が宮崎滔天。眉間にもし傷が見えれば内田良平に灰皿で殴られた痕。
白蓮事件の宮崎竜介は実子です。