「いい加減」のお腹と背中(6)
日露戦争の時に、
「武士道」が世界に宣伝された事例が2つと半分あります。
ひとつは黄海海戦で敵艦隊を取り逃がした上村彦之丞が敵ロシア兵の救出にあたった事。
もうひとつは乃木希典が旅順要塞を降伏させた水師営の会見で
敵将ステッセルに対する紳士的な態度の「武士道」。Oh! パフォーマンス?そんなことはない
半分というのは、海軍の島村速雄が日本海海戦のとき
敵鑑「イズムルード」を「まあまあ、武士の情けだ」と逃がした件。
乃木も上村も当時民衆からのパッシングは酷かったのです。それでも、日本男児として。
さて、乃木が好むと好まざるに関わらず、
乃木を媒体としてこの「武士道」は一人歩きをしていきます。
この漠然としたものが、カタチになってしまうのが
昭和16年1月に陸軍大臣東条英機の名で示達された「先陣訓」にある。
これを担当したのが名将と謳われた今村均。
(軍人として人間として、今村均を否定する者は存在しないといって過言ではない)
それを文豪・島崎藤村が熱心に格調高く仕立てました。
それが新しい、正しい、倫理となっていく。
その七番目にある「生死観」には
「 生死を貫くものは崇高なる戦闘奉公の精神なり。
生死を超越し一意任務に完遂すべし。
身心一切の力を尽くし従容として『悠久の大儀』に生くることを悦びとすべし 」
そな八番目にある「名を惜しむ」には
「 恥を知る者は強し。
常に郷党家門の面目を思ひいよいよ奮励して其の期待に答ふべし。
『生きて虜囚の辱めを受けず』死して罪禍の汚名を残すことなかれ 」
ちゅうことです。
それ以前も日本の兵士には敵に投降する者達も少なくなかった。
また、情報よりも戦力よりも技術よりも、なによりも精神論を第一とした。
これが事実です。すべての失敗と敗因の原因がここにあるといっていい。
実際に、それ以前の軍人にはそういった意識はなかった。
言葉遊びではありません。
私が仮にここで「愛国」という言葉を出したとします。
だいたいの人が引くよね。ドン引きだ。
「愛国」に懐疑的なのに、「武士道」には手放しだ。そこに私は違和感を感じる。
イメージ先行なんだよ。時代劇の見過ぎか?
暴論的に武士道を役人道かと揶揄しましたが、じゃあ軍人精神か?とすれば、
みんな引くよね。それも旧帝国陸海軍の(汗)。
新渡戸稲造はそんなつもりで「武士道」を著したんじゃありません。
読めば分かります。分かりやすい良い本です。難しくなんかありません。
武士道って言葉のかわりに何か違う言葉を考えないといけないのか?
なんだろう?
そういうことを考えてみるのも楽しいものです。
答えを急ぐ必要はない。じっくりと、腰を据えて、咀嚼しながら
写真は世に有名な水師営の会見。
中央の爺様がマー君。向かって右隣がステッセル、その隣が伊地知幸介!
下で足を組んでる変な若者、これが津野田だ。
彼の部下が捕虜になってロシア側にすべてを歌いました。