あかんたれブルース

継続はチカラかな

座布団二枚分の純情

「いい加減」のお腹と背中(9)ムッシュへの手紙




 内緒さんからいいコメントをもらいました。

 「 武士道や十七条憲法は、公務員(官僚)の倫理規範としては、
   優れているんではないでしょうか? 」


 ここでいう「十七条憲法」とは日本国憲法第17条ではなく、
 聖徳太子が定めた官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したもののことですね。

 座布団を2枚与えてしまった(汗)。励みになります。嬉しかった。


 さて、小難しいことをこねくり回して「武士道」にケチをつけた馬太郎の
 その動機と息切れと、想いを聞いてちょんまげ侍。


 そもそも、
『「武士道精神」持て、経済至上より文化大切に』(産経新聞 2007/6/6 単刀直言・平沼赳夫)
「 今の政治全体に欠けているのは「武士道精神」じゃないかな。
 「武士は食わねど高ようじ」というけれど、
  政治家に一番必要なのはけじめでしょう。 」

 というをブログ記事で発見。
 それ以前から、諸手をあげての武士道待望論がありました。
 また、オヤジ世代では平沼赳夫議員の郵政民営化反対による自民党離党に
 「筋を通す男の中の男」って評判は当時飲み屋で乾杯の音頭となったものです。

 アホらし。

 それを黙って聞いて、苦いビールをなめていたのだ。(相手は武田さん)

 どうして、こう団塊世代とかはこうも稚拙なのかね。(武田さんは若干上の世代)
 「新潮45」とか「文春」とかですぐその気になる。
 日刊ゲンダイよりはマシだとしても。。。

 確かに、「武士道」っていうのは良いものであろうとは思います。
 が、よ。
 そんなものが実際にあったかどうか分かりもしないで、
 言葉尻で「武士道武士道」っておかしいじゃないか。

 これは昨日記事にした「マグロマグロ」と同じです。
 イメージ先行なんだな。
 だいたいは一連の記事で書きましたの省略しますが、
 その結論として、

 武士道とは非常に個人的なダンディズムである。
 それは良識派と言われる人たちに芽生えやすく、政治との距離がある。

 たとえば、旧陸軍の今村均大将や宮崎繁三郎中将には武士道があったと思う。
 彼らは皇道派でもなく統制派でもない。所謂、良識派です。
 立派な人だと尊敬するよ。
 けれども、政治的な枠から踏み出さない軍人としての人間のモラルが、
 結局は利用されてしまう。

 日本には「恥の文化」というものがあります。
 この武士道とか良識派は、この「恥」に強く影響されている。

 然るに、高級軍人として、
 個人的なダンディズムがいかほどに無力非力であったかを確認する必要がある。

 確かに「恥」知らずの多い昨今の風潮から
 「武士道精神」を渇望する気持ちは理解できます。当然かもね。

 でもさ、武士というものが軍人なのか役人なのかも含めて
 その出所と名称があまりにも曖昧だとは思わないか、と。

 また、戦術家がその戦術で勝負するように、
 政治家は政治で勝負しなければならない。

 平沼議員は政治家ではないのか? 
 その彼が「武士道」なんてものを持ち出すところが、おかしい。
 それは平沼氏自身の問題であって、それを「政」に一番必要だなんていうから、
 ああ、これじゃあ三流政治家だよ。たんなるパフォーマンスだよね。と感じてしまう。

 また、過去のそういった流れには尊皇とか統帥権とかの問題も絡んできて、
 非常に混乱しやすいよね。危険でもある。
 それ以前に、現実的に武士道って無力だった。
 それは非常にプライベートなものだ。大の男が声を出して唱えるものではない。
 心に秘めて「忍ぶ」ものだと『葉隠』にも書いてあるじゃないか。

 比べる次元と尺度が違うんだな。

 私は、幕末・明治維新からの日本のリーダーたちと武士道はまったく関係なかったと確信します。

 彼らは、その「恥」を踏み越えた者たちでした。

 政治家やリーダーに聖人君子を求めるけれど、
 優れた政治家ならば、悪人でも嘘つきでも女癖が悪くてかまわない。

 私は個人的な生き様として「武士道」を否定はしません。大いに結構。
 
 けれども、「武士道」復古を唱える風潮に
 甘さと稚拙を感じてしまいます。

 これは今の日本人が
 理性よりも感性(感情)の方に
 やや比重が偏っているせいなのかなあ、ともと思いました。