あかんたれブルース

継続はチカラかな

混同と混乱とイメージ先行

週末は武士道の死について(3)



 武士道に関係する年表です。流れだけね。

 1716年頃 『葉隠』(山本常朝)
 1829年  『日本外史』(頼山陽)発行
 1853年  黒船来航
 1868年  明治元年
 1871年  廃藩置県
 1877年  西南戦争(日本の内乱の終焉)
 1900年  『武士道』(新渡戸稲造)発表(翻訳発売かな)


 私は武士道とテロの関係を考えてみたいと思います。
 それが顕著になったのは黒船来航前後ですかね。
 各藩で勤皇か佐幕かの抗争が激化したのと、実力行使としてテロが活発となります。

 こんなことは徳川幕府全盛にはなかった。
 あっても私情のもつれからの喧嘩・決闘・仇討ち。例外的に忠臣蔵くらい(汗)。

 テロが活発化したのは思想が原因ですね。尊皇と攘夷。

 これは非常に甘美な思想だといいます。熱狂する。

 尊皇は天皇崇拝へ 攘夷は欧米帝国主義への反発でしょうか

 双方に日本の中華思想(日本が東洋の盟主であらん)がある。言い方は変かな?

 もちろん、尊皇攘夷活動をしたのは武士だけじゃありません。

 明治政府になって武士は消滅します。
 多くが軍人になったと錯覚しがいがちですが、そんなに軍人を養えるほど新政府に予算はない。
 薩長などの藩閥に属するものは下士官の道に進みますが、
 その他は、アホらしいと警察関係に就職していきます。

 武士道を士族階級の思想とするならば、桜田門・交番精神となる。これは無理。

 幕末から明治にかけての時代。いやそれ以降も
 テロリズムの時代であったともいえます。
 多くの政府要人が暗殺された。

 こういったテロを武士道と結びつけるか?

 違いますよね。テロは武士道じゃなくて尊皇・攘夷の思想が生みだしている。

 明治の軍隊は徴兵制で平民によって構成された。
 指揮官は士族でしょうが。

 しかし、この尊皇と攘夷の思想はしっかり受け継がれていったんでしょうね。

 それでも、
 明治の軍隊組織は非常にバランスがよく政治と軍事に一線を引いていました。
 非常に、神経質に、慎重に。

 それがぶっこ割れてしまったのが統帥権問題。天皇機関説の賛否。
 そして、皇道派と統制派の対立と抗争。
 二.二六事件で渡辺錠太郎(陸軍教育総監)の暗殺で決定的になってしまう。

 そこから先に帝国陸海軍の官僚システムは坂道を転げるの図です。
 双方の良識派は利用され左遷され駆逐されていった。
 そして天皇は利用された。

 そういうのを尊皇といえるのかどうか?

 武士道と尊皇思想や攘夷思想をイコールしてしまうことに疑問を感じます。

 少なくとも、明治の軍隊組織は違ったと思いますよ。
 それは、明治の高級軍人。将官の姿勢から充分にうかがえます。

 新渡戸稲造の『武士道』を読む限り、そんなことは書いていない。

 どこかで、混同と混乱してしまっている。
 そして、イメージが先行しています。