言葉について(5)
以前、青山一丁目の駅ビルを歩いていたときに
一組の父子が目に入った。
たしか、お盆過ぎの平日でしたかね。今時分の頃だった
「フォルモサ」という中華料理屋の向かいにある和菓子屋でなにか注文していた。
子供はダウン症でした。小学1年生ぐらいでしょうか。
父親の手を握りしめています。
ときどき、その手に力が入っているのが分かる。そして、父親を見上げる。
テキパキとおはぎを注文する父親を頼もしく感じているのでしょうか。
この子にとって今日はちょっとした冒険。
そして、お父さんは彼にとってヒーローのような感じかな。
あの手を握りしめて、力が入った瞬間の、
その光景がとても印象的で、記憶に残って離れない。です
すいちゃんの先日の記事。
「僕の13歳誕生日」
http://blogs.yahoo.co.jp/suyi0902/43088832.html
この「僕」というのは二ヶ月前にアップされた
「ノートルダム・ド・パリ:カジモドという子」の少年。
記事読んでみて、じゃなかったらケーキの画像だけでも見てください。
「僕」はこのケーキを選んだ。
「僕」はHello Kitty が好きなのだそうです。私はそうでもないけど、
この画像のケーキがとても美味しそうに見えました。
>お姉さんとすいに「ほかには綺麗なのはあるのに、なぜ一番目立たないのを選んだ」
と言われたそうです。
今週の火曜日にアップされていた、
すいちゃんのこの記事に考えさせられました。
「僕」は一番目立たないケーキを選んだ?
いえ、「僕」は一番気に入った一番好きなケーキを選んだ。
このケーキが「僕」にとって最高だったのです。
幸せや価値観は個人的なものです。
そして、私はすいちゃんたちが見たその店の他のケーキを知りません。
比較することができない。
比較もまたモノの尺度を変えます。
「幸せ」とか「不幸」とか
それはとても個人的なものです。個人的な感覚。
「障害を持つ」というテーマはとても重いものです。
友人のアルファさんは、障害者施設の作業所で職員をなさっている。
法制度が変わって大変なようです。
一度だけ、彼に聞きました。「障害者」について
彼はたしかこう答えてくれたと思います。
「そのひとが
楽しく幸せに暮らせていけたら
いいのではないでしょうか」
アルファさんの言葉には力がある。と、しみじみ思ったところです。