あかんたれブルース

継続はチカラかな

無法松の「さびしさ」の行方

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日露戦争の前、明治32年
石炭景気で沸く小倉の駅に一人の陸軍軍医が降り立ちます。

左遷人事で都落ちのこの男の神経を逆なでしたのは人力車の車夫からの乗車拒否でした。
成金旦那衆ならチップをはずむ。それが車夫の主張です。

なんたる拝金主義!

苦々しく吐き捨てたこの男、森鴎外

色々問題はありますが、彼のなかにも「彼の正義と道徳」はある。わけだ。

この時の時代環境は躁状態です。なんかバブル時代を彷彿させますね。

この小倉の町にひとつの都市伝説が誕生します。

無法松という人力車の車夫の物語。森鴎外を乗車拒否した犯人ではないですよ。

♪ 小倉生まれで玄海育ち チロリン(このチロリンは私の合いの手)

映画にもなった舞台にもなった唄にもなって村田英雄が歌いました。

無法松の一生』 その主人公は富島松五郎。

なんだ小説・フィクションの話じゃないか。というのはちょっと待って。

ここに現代の「鬱」の原因が隠されている、と私は妄想しています。

ストーリーは無学で粗暴な無法松が軍人の未亡人とその息子との交流を描いたもの。
その動機は戦死した吉岡大尉との生前のちょっとした好意でした。
その恩義に報いようと、残されて未亡人と息子を何くれとはなく守ろうす。
忠犬のようないじらしさ。息子には父性を、そして、未亡人にはほのかな「恋慕」を、
けれども「さびしい」といって雪の日(映画では)に独り死んでいく哀しいストーリーです。

当時、大衆文学っていうものがまだ確立していないなかで、
直木賞を受賞したこの作品は映画や舞台に脚色されて民衆の支持を獲ました。
が、その段階で「無法松の気持ち」も脚色されていきます。

無法松の一生』は富島松五郎と吉岡未亡人の忍ぶ恋として描かれていきます。

しかし、原作にはまったくそのようなニュアンスはない。

フィクションはフィクションでしかないのですが、
こういった制作側の意図は、ひとつの価値観を植え付けていくことになる。
私はこれを恋愛至上主義と位置付けます。これがひとり歩きをしていく。
無法松の都市伝説の誕生もその現れかもしれませんが、同時に
小倉の赴任した鴎外が感じた経済至上主義もまた同じく、
日本人を個人主義に奔らせていくものです。

無法松は「さびしい」と言って死んでいく。

なぜ、無法松が吉岡親子に愛情を注いだか?
それは生前の吉岡大尉に恩義を感じからです。
そこの差別社会というか「棲み分け」の社会がありました。
その垣根を越えて、吉岡大尉は無法松に接した。これが無法松・富島松五郎には嬉しかった。

愛=恋愛とは違う。と馬太郎はよく宣いますが、
無法松の愛は儒教で捉える「仁」であり、そこに主従の関係があり、
階級や差別という社会での人間の棲み分けがある。

もちろん、こういった差別のある世界はよくない。
そういうことで戦後民主主義は支持されて、日本は色々な意味で豊になった。
けれども、豊になっても差別は存在するし、豊かさもさほど効果がありません。
貧困から身売りする者から豊でも「援交」する者もいます。

自由と平等にも二面性があり、諸刃の剣なのですね。

テレビなどの情報は「比較」を生みます。
それが故にいつも比較し続けて満足できない。嫉妬を生みます。
日本人はもともと嫉妬深い民族ですが、棲み分けがなくなりタガが外れてしまった。

無法松は「さびしい」と言って死んでいきます。
それは吉岡未亡人の愛を得られないさびしさではない。
時代や年齢的な環境による友との別れ、そして孤立していく自分自身。
彼の「さびしさ」は私たちすべてが共通してもつ感情だと思います。

若いうちはいい。そういうのが見えないほど眩しい世界ではしゃいでいられる。
けれども邂逅には同時に別れもあり、人はさびしさを感じるものです。

その埋め合わせを恋愛に求めるしまうのがいまの風潮です。

その本質を見えにくくさせているのが、作られた価値観であり、
際限のない「比較」であり、そこから嫉妬や不安が生まれている。

これが閉塞や疲弊の在処なのかもしれませんね。




「鬱」は文化の烙印?(10)

無法松の一生』の参考にどうぞ。
http://members.jcom.home.ne.jp/muhoumatu-suginami/muhoumatu.htm