悔やみと償いの哀しい結末
何かの拍子に思い出すと胸を締め付けられる映画のシーンがあります。
ユダヤ人収容所で幼い二人のわが子のどちらかを選ばなければならない
母親の動揺する表情が深く脳裏に刻まれています。
気まぐれなドイツ人のお情けのために
どちらかをガス室に送る選択。我が子の死を選択しなければならない母親。
『ソフィーの選択』
1982年の映画だからかれこれ25年ぐらい経ちますかね。
もうストーリーもほとんど忘れてしまったのに、そのシーンだけは忘れられない。
「あたしに選ばせないで」
ソフィーは自分が小声で嘆願する声を聞く。
「あたしには選べません」
ソフィーは幼い方の女の子を手渡してしまう。
昨日、幻夜さんから勧められた小此木啓吾の本に『ソフィーの選択』が
紹介されていました。
そのことで深く傷ついたこの女性は「悔やみ」を引きずって、
戦後、ニューヨークで二人の男性にめぐり逢う。
そうでした。前半の回想シーンが強烈ですっかり忘れていた。
けれども劇場で見守っていたソフィーの第二の選択に私は戸惑っていたはずです。
幸せになれるはずの恋人ではく、精神を病んでいるもう一人の恋人を選択して、
一緒に死ぬという「選択」をする結末。
正直、あの頃はよくわかりませんでした。
ただ、哀しくはあった。
なんとなく置き去りにされたままテアトル新宿を後にした。
「悔やみ」を引きずったソフィーは「償いの形」
小此木啓吾はこう語っていました。
「 罪の意識を抱くということは、自分はそれをなんとか避けることができたははずだ、
あるいはそれをするのが自分なのだ、という自己感覚の上に成り立っています。
つまりソフィーは、あの選択が迫害される環境のなかで、
自由意志の発揮できない条件下に行ったのであるにもかかわらず、
なおそれを自分の罪と責めています。
ここに、戦後という社会のなかでの自分を全うしていこうとする
ソフィーという女性の人格がある、
言い換えれば、罪の意識を持って「悔やむ」という自体のなかに、
彼女の主体性というか、自分らしさというものがあって、
彼女はそれを最後まで全うしよとしたのだと、
『ソフィーの選択』という映画は語っているわけです。 」
小此木啓吾はやさしく語ってくれました。
原作の本は絶版だそうです。
レンタルビデオ屋の片隅にあるかもしれません。いやある絶対。
もう一度観てみませんか。
まだ観たことないなら、是非。