あかんたれブルース

継続はチカラかな

人間が変われる時期と場




人間は変われるか。

この宿題に頭を絞っていたのは
『訓録・仁義なき戦い』の「列伝・江田省一」の稿を執筆の時でした。

第二作『広島死闘篇』から山城新吾が演じ、
三作『代理戦争』、四作『頂上作戦』までC調激情家でしたが
人間違い身代わり殉死する第五作『完結編』での人物の若干の変化に注目しました。

http://jp.youtube.com/watch?v=v7WCJ_ARRK8&feature=related

たかが映画の演出の話じゃないか。とお思いでしょうが
江田省一の実在のモデル・原田昭三を俯瞰したうえでの考察です。

江田が変わっている。

ああ、これは二八の論理だなあと。
「この世を司る不思議な「二八の論理」と諸刃のハサミ」
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/6900161.html

前出の江田省一も旧村岡組三羽烏と言われた時代には
実務派の武田や松永がいたので女にツイツイ入れ込んでしまって親分の不興を買います。
山守組と合併すると実力派だけど反主流の広能とゴマスリ槇原、ズル早川と
頭数が増えただけで自分の居場所がなかなか見いだせない。

ここで分裂。
松永は引退。広能は敵方。
知らず知らずのうちに「しっかりしないと」と考えるようになった。
そういう立場になったわけです。

それまで人間が「変わる」っていうのは
瀕死の臨死体験とか宗教によるとか何かのアクシデントが必要で
それ以外はギャンブルや酒や遊蕩や明美や智佳子か小豆相場とお里が決まっていると考えていた。
放っておけば勝手に堕落していきます。

違うんだね。「場」ってものが大切なんだ。

だから、不幸を堪え忍ぶものいいのだけれど、慣(狎)れるのはよくない。
ここを間違うといけません。

だから伊藤博文とか明治の偉人たちが実は大したことはないのに、
たとえば竜馬が小便タレでも初代東京府知事由利公正がバカと言われた青年でも
「場」さえ与えられれば、なんとかなる。と膝を打ちました。

これって、結構感動的な「この世の法則」だった。


それからしばらく経って、『日露戦争明治人物烈伝』の東郷平八郎の稿で、
「鬱」で人間は変われることを確信しました。
これこそが「鬱の力」なのですね。

これままた次回。

ということで、「変身」をテーマに連作にしてみます。