あかんたれブルース

継続はチカラかな

複眼レフで立体的に見たいよね。




世の中なにがイヤかっていって
ナマコとナタデココと悟ったような婆さんは苦手です。

悟ったような爺さんやオヤジに冷や水をかけるのは三度の飯より面白いですが、
私も一応小学6年からフェミニストと言われた神童ですから
今はただの人でもトラウマがあるのでしょうか。(なんのこっちゃ

ちょっと何か書くと「男目線だ男目線だ」と騒ぐ。

で、こっちきて教育してやると袖を引いてくる。遣り手婆のようだ。

そうなると、ただ「女目線」になるだけじゃなん。
田嶋陽子の挫折と末路を知らんのか。

こういのも結局は時代の流行ですからね。

まあブログでは時事ネタ同様になるだけ避けてきたのですが、
先月、塾長から「男女関係なく、複眼で見ないといけない」
っていうようなコメントをもらって膝をたたいたね。

そう、人間にはふたつの目があるわけだ。
それを男だ女だと焦点を絞ろうとすると自然に片目になってしまいます。
ライフルのスコープみたいだよね。誰を狙っているのか知らないけど。

それはそれでひとつの見方なのでいいのですが、
基本は両眼で立体的に観なければいけません。

私がどう逆立ちしたって女にゃなれないし、男は男。カモメはカモメ。馬は駄馬

複眼でみるから立体的になって距離感もつかめるものです。

ムッシュも似たようなことを言っていたな。

   >「自分を知る」ということは、自分の価値観に自覚的になることだと考える。
   >自分の価値観に自覚的になれば、自分がどういった人物であるかがわかる。
   >その上で、如実知見。世の中をありのままにみる。
   >そうすると、自分の理想と現実のギャップが見えてくる。
   >自分がすべきことは、そのギャップを埋める作業。
   >価値観を変更するもよし、
   >現実に働きかけるもよし。


これ、複眼のこと。つまりはこれも陰陽学じゃよね。
私たちは知らず知らずその教えのなかにあるのに、それを意識しないでいる。


近現代史の面白さは資料も豊富なので、
歴史の醍醐味である「人物考察」にあります。

そういった人物を観るときに、正面からだけじゃなくて、
裏からみたり、下から仰いだり、上から俯瞰したりしてみると、
CGみたいに立体的な実像がみえくるものです。
その時々の事件や事態での「出処進退」とか「交友関係」とかね。

戦後ジャーナリズムは常に「裏から」とかばかりを真実としていたし、
どこかで斜めにみることで知的だというトレンドがあったようです。
そういった姿勢がすっかり私たちにも浸透している。

人間になぜふたつの目があるのか。

男目線女目線含めて、利害や経験や環境など、
私たちはついつい過ってしまうものです。

陰陽学っていうのもこういうことであて、陰が悪くて陽が良いというものじゃない。
陰と陽の中間の「中」、つまりはバランスのとれた「中道」「中庸」
が良いのコトヨ、アルネ(なぜか最後は陳さん風)。




陰陽四十八手(3)年増年増桜卍固め