結局、これだよ。
物理科学数学というもので運というものや
この世の法則を解き明かしてみたいな〜あと思いました。
そうでないとみんな信じないもんね。
祈祷師とか千里眼とか霊能力者などだけの十八番にしておけない
そういう切羽詰まった時代になったのだと思うのです。
というか今までこういった特異体質を持った
特定の占い師とか超能力者とか宗教家だけにまかせておけない。
なぜなら、彼らの真贋をはっきりできないし、彼らもそれをベールに隠す。
もうウンザリ。はっきりさせたいのです。
幸せとか幸運を獲たい。
だれもがそう思います。なかにはそれを罪深いと指摘する者もいれば、
それをそう信じているひとたちも意外に多いものです。
たとえば、現世を「学び」や修行の場であり、すべては来世のためにあると諭す者もいます。
それも否定はしないけれど、
かといって今現在の現世をストイックに考えるのもおかしい。絶対に。
今現在をしっかり生きて幸せになればいいじゃないか!
では、幸せってなんだろう?
理系の学者たちに思考には哲学が大いに影響しています。
わたしは「易経」という陰陽学というものが
哲学的である以上に、理論的なこの世のメカニズムを説き明かしていると思います。
ところが、長い年月の間に、この理論はすっかり占いに変容してしまった。
その占いのなかでも一番難解で胡散臭いものになっている。
細木数子の六星占術、江原さんのスピリチュアル、マーフィー牧師や「引き寄せの法則」などなど
どれにも説得力はあるのですが、どれも決め手に欠けてしまう。
府中競馬場の長い直線でどれもが失速してしまうのです。
成功するための幸運、欲求を満たすための幸運、幸せを得るための幸運。
とにかく、みんな幸運を求めます。
幸せと幸運。これがわたしたちの最大の関心事です。
そして、不安の払拭ですかね。死の不安、存在の不安。
易では口を酸っぱくして説きます。
正しい行い。それはなに?
「驕るな」という。身を修めろと力説します。これがすべての基本だと。
個人も組織も国家も、驕るからダメになってしまう。
後漢の儒者・政治家だった荀悦(138〜209)は『申鑒(しんかん)』にそれを
「偽」「私」「放」「奢」として四患とあいました。
「偽」とは偽装です。今の日本のママです。そして偽る心。
「私」は私心が度を超えてしまう個人主義、利己主義。
「放」はでたらめ、放任無責任。そして自由の履き違え。
「奢」そして、驕(奢)り国も共同体も人をもダメにする。
なぜ、そこまで奢りがダメにしてしまうのか?
運とは変化するものだといいます。
奢りはその変化を嫌います。もっとその場で満足していたい。
人間とは変化を嫌う習性があるんですね。
というかなかなか変わるのって大変なのだ(汗)。エネルギー要るし。
そう、だから常に身を修めろと口を酸っぱくして説かれている。
古典中の古典と言われた「易経」の教えを、
16世紀のニッコロ・マキャヴェッリがそれを裏付けるように『君主論』に書いています。
「運は変化する」と。そして、その兆しを捉えて行動しろと書いている。
ルネッサンスが生んだこの天才と易経の時代と東西を隔てた奇妙な合致に
私は小便しながら震えるのさ、今日も冷えるねえ(汗)。ブルブル違う!
血沸き肉躍るブルブルだ!
陰陽四十八手(38)あい番号あってる?