あかんたれブルース

継続はチカラかな

アダムの末裔たち




聖女ポーラの正体は溢れんばかりの「母性」にあります。

だから、うすらとんかちのスミシーをほおっておけなかった。
でね、スミシーが失踪しても、子供が健在だったなら
はたしてあそこまで行動したか、どうか・・・

女性の優しさは「母性」に強く影響されています。

問題は、恋人から妻に変わって、母になるとき、
彼女たちのチャンネルが大きく入れ替わってしまう。
その照準は「子供」を捉えて離さない。

ここに、恋愛の終焉があるのだ(涙)。
わたしたちは噛みつくされたロッテのクールミントガムのように
ほろ苦さだけを味わうのだった。とかね(笑)。一般論ですよ。
なかには噛めば噛むほど味の出るスルメのような人もいるだろうけれど、
時間の問題、かもね(涙)。

ああ、エデンの園から手に手を取って逃れてきたのに、
ここが愛の終着駅。いえ流刑地なのか。
彼女の目にはわたしは映っていないのだった・・・

で、そこで
わたしたち男性の「父性」というものを考えてみます。
危険な狩りもなく、悲劇の製造マシーン戦争もない平和な世の中で
わたしたちの社会は「メス化」しているといわれます。

女性の社会参画と平行して男性は育児や家事に参画せよと囃し立てられます。
それはそれでやるのですが、なにぶん不調法で・・・
そんな言い訳なんて通用しないのだ。

躁うつ病の旦那さんと別居中の桑子がしみじといいました。
「男親があんまり子育てに口出すものじゃない」
気の良い桑子がその修羅場をこの一言で語り尽くします。
それを特例とするのではなく、
男親の子育てってものは、生き様とか背中をみせるとか
母親とは違ったコミュニケーションなのではないかとも思う。

でもさ、そう考えれば考えるほど
「父性」の重要性に疑問を感じてしまうのです。

親はなくとも子は育つ。

子供にとって母親と父親の必要度合いは断然、前者に軍配が上がる。
要は生活費だけなのかも。
そして、離婚に躊躇する大きな理由は「生活」に重点が置かれます。
愛の有無は二の次三の次だ。

母性をやさしさ。とすれば、父性ってなんだろう?

やさしさだけが評価される現代において、
父性の意義を考えるのでした。





女性たちよ、漢を育てておくれ(涙)。其の五
もしくは『マルタの鷹』(4)または「走れメロス」(太宰治)もしくは『心の旅路』(2)