あかんたれブルース

継続はチカラかな

愛と友情のその格差




愛、友情、そして裏切り。

ピカレスク小説のキャッチフレーズはいつもこれだ。

愛の正体を暴くために、男と女の友情を確認しようと試みました。

なんでハメットかというと、この長い愛の旅路「愛を訪ねて三千里」の
出発地点お江戸日本橋がハメット原作『マルタの鷹』からだったから。
愛情よりも友情を優先した『マルタの鷹』の主人公サム・スペード。
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/46920791.html

男と女の友情

『マルタの鷹』の原作者ダシール・ハメット
彼にはリリアン・ヘルマンという恋人がいた。いや親友がいました。
肉体関係? そんなことどうだっていい。

この男女のことは映画『ジュリア』(1977年)でワンシーンだけ
それですべてを語っていました。
作品自体は主人公の女と女の友情の物語。中盤、そこに浜辺のシーン有り。

夜の浜辺、赤々と燃える篝火を間に一組の男女が向かい合っています。
米国初のオスカー候補になる戯曲作家リリアン(ジューン・フォンダ)と
ハードボイルドスタイル確立させた推理小説家ハメット(ジェイソン・ロバーズ)だ。
二人の手にはバーボンかスコッチかの酒瓶が。ラッパ飲み(汗)
この世の矛盾の理不尽に憤り、自らのプレッシャー苛まれ怒り狂うリリアン
対して、冷静に彼女の話に耳を傾けて本質を洗い出し答えていくハメット。

作品自体は渋くて地味なのですが、わたしにとっては強烈に刻まれた作品。
カッコイー!心に決めました。自分の男の目標はこれにしよう。ハメットです。

冷戦下の1952年、ヘルマンは、非米活動調査委員会に呼び出された。彼女と長期にわたって恋人関係にあったダシール・ハメットが米国共産党員であることを掴んでいた。ヘルマンは、共産党加入者の友人の名前を尋ねられ、この声明を読み上げる。
「たとえ自分を守るためであったとしても、
 長年の友人を売り渡すのは、わたしにとっては、
 冷酷で、下品で、不名誉なことであると言わざるを得ない。
 わたしは、政治には興味がないし、
 いかなる政治的勢力の中にも自分の居場所を見出したことはないが、
 それでもわたしは、
 今の風潮に迎合して、良心を打ち捨てることを潔しとしない。」


男と女の友情はあるか? ある。

いや、男と男、女と女、男と女 それに関わらず友情はある。

あるけれども、それを持ち得る者と持ち得ない者とが存在する。
つまり、存在の有無は問題ではないのです。それは存在するんだから。
存在するからといって誰でもそれを持てるとは限らない。

愛も同じです。

自由、平等と同じように愛も心地よい響きでわたしたちを包みます。
けれどもそれに厳しい資格のようなものが必要なようです。
持ち得る資格。

100人いれば100組あれば、100の愛がある。
耳に心地よい言葉ですが、それは嘘かもしれない。
100組あってもそこに愛は存在していないケースもある。
たしかに、愛は幾通りの形はあるけれど、その本質は同じだと思います。
無償であること、自分に対する誇り、自己愛。
それはO〜MAさんが言った
>理性と気概を持った人だけが至高の幸福感を味わうことができる
であり、アレックさんが言う「矜持」としてもかまわない。
持ち得る者には資格が必要だ。

ハメットは『マルタの鷹』で愛情と友情を秤に掛けて
友情を選択したのではありません。

愛情と友情はイコールなのだ。しかし、愛と恋はイコールじゃない。

恋は愛を育むためのひとつのプロセスです。
プロセスであるけれども、そこからエスカレート式に愛に到達できるとは限らない。
これが厳しい人生の現実。摂理、真理というものでしょうか。

だから、そして、友情を台無しにしてしまうのは決して「性」ではないのです。

昔、わたしにそのヒントを与えてくれた女性がいました。
「男と女の友情。それはある。
 性はあってもなくてもどちらでもいいことです。」

その言葉を頼りにここまで来ました。
「愛はなくてもセックスはできます」と言ったのも彼女だった。これが痛くて(涙)
それでも愛を信じていた。信じようとしていた。渇望していた。
そして矛盾していました。葛藤があった。永遠の愛を求めていました。

その頃、わたしは愛に対して懐疑的だったのですが、
惚れた弱みで愛の存在を立証させる必要があった。それがここまで時間を要しました。
古い記憶をたどって、闇雲に本を読みあさり、悶絶して(汗)。
   「肉欲ではない、ほんとうの恋。 ああ、恋がしたくてたまらない。」
   『友情』 武者小路実篤(最近ラガマフィンさんの記事が遠い記憶を蘇らせた!)
   これも伏線になっていたんでしょうね(涙)
その障害になると信じられている性の存在を、
彼女が言った「あってもなくてもどちらでもいいこと」この言葉を頼りにして。

これまで三度挫折したのは、このことを伝えるにあたって、
非常に不道徳なこととして誤解されることを恐れたからだと思います。
いや、まだ自分自身が咀嚼しきれていなかったのでしょうね。

愛についてはもう少し補足しますが、
男と女の友情に関してはここまで、です。

それはある。絶対にある。

「男と女の友情。それはある。
 性はあってもなくてもどちらでもいいことです。」
遅くなって、ごめん。君は正しかったよ。



愛を訪ねて三千里(30)
「男と女の友情」尾張名古屋でこれでお仕舞い。