愛と生と死をみつめて
わたしたち現代人は合理的に知的に、
そして個人主義で生きることを選択した。
それなのに空しさがこの身を焦がします。
リスクを承知で恋を求める。
危険な匂いを追い求めても、盲目になりたいと欲する。
刺激を求めます。
それを非日常と結論付けました。
わたしたちは現実のなかに生きてはいますが、現実だけでは生きられない。
刺激を求めます。
それは異世界への旅立ちです。
この矛盾する摂理。
けれども、すべてはこの相反する想いこそが人間の本質だと思うのです。
それはなにか? 生と死です。
わたしたちは生きることばかりに光をあて、
死に対しては拒絶と不安と恐怖をもっています。
けれども、どかかで死に対する憧れもあるようです。
もののあわれのエロティズムにはこの死という幻想がこめられている。
性交の目的に絶頂を目指すという意識が働きます。
そのとき、「いく」という目的地とはどこか?
「くる」という意識はなにか?
それは異世界、つまり「死」の領域、意識なのではないかと。
勿論、死を望んでいるわけじゃない。
生を確認するために死の意識を確認したいのでしょうね。
快感も苦痛もすべて生を確認するための感覚なのでしょう。
光は影があってこそ、その存在を確認できるもです。
なんかすごいことを書いてる気が、気がするだけです(汗)。
そう、すべては思い込み。個人の観念だけなのです。
すべてはそれだけ。
しあわせもこの世の中のすべても思い込みだけに支配されている。
サンマを食べても感動しない庶民とサンマを食べて人生観を変える殿様。
それを京懐石やフランス料理に変えれば立場が逆転するだけ。
それでも京懐石やフランス料理が食べたい。
でも飽きますよ。そのうちに
非日常が日常になれば、人間は飽きてしまう。
もっとメリハリのある生き方を求めているのです。
でなければ、死んでいるもの同然なんだ。
平凡な生活。変化のない日常。刺激のないどんよりとした日々・・・
もう嫌!絹の靴下は。と昔、夏木マリが青少年を挑発したものです。
これがエロティズムの正体だ。
そして、死にはその誘惑が隠されている。
だって、担保にするにはこれ以上のものはないんですもの。ねえ
愛と性に対しての補足として(12)エロティズムの正体(5)
ビジュアルは山本タカト(丸尾末広じゃない)