あかんたれブルース

継続はチカラかな

阿波踊りは知っていた。

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エロティズムの在処が時間と虚無と異界にあって
それが死の確認によって生を際だたせる。

恋愛や性交や非日常の刺激や狂気がそれをあらわにしてくれる。
日本人のもののあわれはそこにある。
でしたね。

死んでもいい。と想える人と事を持ち得るかどうかがカギのようです。

これがなかなかみいだせないんだよね。
閉塞感の原因はここにもある。

昔、「三国志」だったか白土三平の『カムイ伝』だったかのキャンペーンの
キャッチコピーに「自分を知る人のために死にたい」とかなんとかありました。
認められて、自分を認めてくれる人のために死にたい。
人間はこういった願望があります。
それは恋愛でも忠義でも友情でなんでもそうなんだ。
自分の死を賭けられる存在を欲している。

戦国時代の武将が、江戸期の御家人旗本退屈男たちが、はらまた海軍の軍人が
衆道(同性愛)に奔ったのもそんなところからでしょう。

わたしが同性も異性の友情も同じ次元であって性はその妨げにならない
という不道徳な発言に違和感をもったひとも多いかもしれませんが、
その裏付けはこんなところからです。

さて、死を賭けるからといってエロティズム=死。じゃないですからね。
あくまで、死も辞さない。という不退転の決意みたいなものです。
(それでも「心中」なんてものは実際に流行りましたが)

で、この高揚に「見られる」と「見る」という行為があります。
切腹なんていう自殺自虐行為も「見られる」というものでしょうか。
変態の露出狂もそうです。
「見る」は芝居や映画などもそうであり、感動して感情移入しちゃう。
同情ですかね。
「覗き」もこれにあたります。
昔、寺山修司がこれで逮捕されましたが、なんだかんだ理由を言ってたけど
多分、エロティズムの追求があった、としておきましょう。か。

でね、この見る、覗くは
「安全な場所から」というズルにもつながりやすい。

もののあわれの流行時に浮世絵の枕絵(春画)とかが流行りだしたのもそれです。
特に男性は「視覚的なエロ」で興奮する性質があります。
現在のアダルトDVDなんかもその流れなんでしょう。
ただ、この「安全な場所から」っていうのも問題があって、
そういった場所からだと最終的な場所にはたどり着けない。
いえ、別に露出狂になれっていってるわけじゃないんです。

ほら、『ベルリン天使の詩』で、天使が恋をして人間になったでしょ。
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/47047928.html
永遠の命を捨てて人間になることは死を意味する。
しかし、彼はもう傍観者(のぞき)ではいたくなかったんだ。

監督ヴェンダースがその前作で撮った『パリ、テキサス』は奇しくも
愛の本質を「自己愛」と導き出すためにのぞき部屋を用意しました。
彼がどこまでそれを確信していたかはわからない。
http://blogs.yahoo.co.jp/djkxq447/47026373.html
わたし的にはただマジックミラーを登場させたかったんじゃないかと
邪推する次第なのです。

主人公は結局自分のことしか考えていないように思えました。

本当にナスターシャを愛しているならば、
そんなマジックミラーをたたき壊して抱きしめるべきだ。
その彼女の瞳に映る自分を発見してほしかったと思うのです。
愛は常に無償の愛と自己愛でなければ存在しないもの。
光の加減で己の姿が見えたからといってハッとするようじゃダメなんだよ。

小難しいことをダラダラやってしまいましたが、
日本人としてもっと端的にそれを阿波踊りが訴えてくれています。

   踊る阿呆に見る阿呆
   同じ阿呆なら
   踊らにゃ損損

まあ損得じゃないのですけどね。
そっちの方が楽しいし有意義な人生ではなかろうか、と。
熱狂しようよ。熱く狂うのだ!
これでいいのだ。




愛と性に対しての補足として(13)エロティズムの正体(6)
ビジュアルは山本タカト丸尾末広じゃない)