あかんたれブルース

継続はチカラかな

従軍記者の元祖とロマン



日清戦争の興奮から子規は結核でありながら従軍記者を志願します。
上司であり恩師であり「日本」の社長・陸羯南は困惑しつつも
その熱意に根負けしてしまいます。子規は歓んだ。

余談だがですばい(笑)。
日本の従軍記者といえば、犬養毅西南戦争特派員が有名です。
慶應義塾を中退して、郵便報知新聞(後の報知新聞)に入社した犬養は
明治十年の西南戦争に従軍してリアルタイムな情報を戦地から送りました。
これが人気を博した。
抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、犬養の取材によるものとも言われている。

なんとなく犬養毅が近代日本の従軍記者第一号のイメージが強いのですが、
それより三年前の明治七年に岸田吟香が大倉組と共に台湾出兵に赴いています。
当時彼は東京日日新聞主筆として活躍していた。
岸田の『台湾従軍記』は大評判となりました。

岸田は美作の国の百姓の子として生まれましたが、江戸に遊学して儒学を修め
三河挙母藩召し抱えの中小姓として奉公するなどして維新の荒波に揉まれ、
深川の妓楼の箱屋、湯屋の三助、下男に身を落としたと思いきや、
突如妓楼の主人になって吉原に住むという破天荒な人生を歩み明治維新を迎えます。

この生き様を本人が自嘲気味に「ままよのぎん」と名乗り、銀次となって、
仲間内からは「銀公」と呼ばれるようになります。
これが岸田吟香の名のルーツにあたるわけですね。

その後、眼病を患ったことから横浜のヘボン医師を訪ねたことが切っ掛けで
ヘボン塾で英語を学び、日本初の和英辞典『和英語林集成』の編纂を手伝う。
ヘボンというのはあのヘボン式ローマ字のヘボンです。
林菫や高橋是清などが学んだ英語塾ですが、なんとなく吟香って
三味線持ちになった高橋是清に似てますね。

また、眼医者だったヘボン医師から目薬の製法を伝授され、
その商品化発売で銀座に「楽善堂」を開店させて事業で成功をおさめます。

岸田吟香はその売り上げを日清友好と貿易のために活用し、荒尾精などを支援し、
日清貿易研究所や東亜同文書院の設立に大きく寄与しました。とさ

正岡子規の従軍記者へのロマンはこうした
岸田吟香犬養毅の活躍と重ねられていたのかもしれません。

日本はまだ若かった頃の、話の余談です。




坂の上の雲』文庫第二巻 第十章「根岸」