あかんたれブルース

継続はチカラかな

最高のコンビ



その後の権兵衛は順調に昇進して軍令家も経験をつんでいきますが、
彼と日本海軍の運命を変えたのは明治二十四年六月に海軍省官房主事
に登用たことです。これは現在でいう次官ですね。
そして、西郷従道海軍大臣)との出逢いであります。

従道(なるほど大臣)と権兵衛(大佐大臣)のコンビは絶妙でした。
最高のパートナーだった。
従道は権兵衛を信頼し、すべての責任を負い矢面に立ってフォローしました。
そして、権兵衛も従道を信頼した。
ここに、連合艦隊旗艦「三笠」の手付け金捻出の文部省予算流用という
とんでもない逸話が生まれ、
「許してもらえなかたったら二人で二重橋の前で腹を切ろう」という
感涙の名言が生まれます。

さて、余談

でもね、権兵衛は最初から従道を信頼していたわけではありません。
むしろ最初は不信でいっぱいだった。

御存知のように従道は西郷隆盛実弟です。
権兵衛が最も尊敬するのが西郷隆盛であり、西郷が征韓論の敗れ下野すると
海軍兵学寮を抜け出して鹿児島まで西郷を訪ねたほどです。
こときは、西郷に諭されて東京へ帰った。
権兵衛が西南戦争で西郷の死を知ったのはドイツ艦船で修行中のことでした。

その実弟がなぜ尊敬する西郷と行動を共にしなかったのか?

それは明治二十年、従道が二回目の海軍大臣(第三代)のとき、
権兵衛は佐世保方面視察に同行します。その長崎で丸山の料亭で
従道と閑談する機会を得る。

そのとき、権兵衛は長年の疑問を従道にぶつけます。
単刀直入に率直に歯に衣着せず。
なぜ南洲と行動を共にしなかったのか?

従道は大山巌と共に欧州留学を経験して
維新後の国家運営の確立が重大かを痛感した。
朝鮮に死に場所を求めている兄隆盛を阻止することを確信した。
征韓論にはふたつの見方があり、兄はその一方を選択し、他のものは
他の一つを選択したのである。
自分は兄と終始意見を異にしたわけではないが、
自分のようなもっとも縁故の深い者までが兄と行動を共にしたとなると、
陛下に対して忠誠を欠く恐れがあることを痛感し、
東京にとどまったのであって、それは兄もよく了解していたところである・

この「よく了解」とは台湾出兵の後に鹿児島に帰った従道が兄隆盛と
語り合ったことからです。

この逸話は権兵衛が残したたったふたつの手記によるものです。

その手記には、西郷従道への思いが大いに誤っていたと書いてあります。
そして、
以後は、互いに信頼して、常にいろいろなことについて
隔意なく所見を交換するようになった。と書いてある。あるのです。

こういうことがあって、海軍大リストラとか「三笠」発注の手付け金捻出事件とか
羨ましい限りの上司と部下の神話は生まれるわけですね。




坂の上の雲』文庫第三巻 第十八章「権兵衛のこと」(2)