あかんたれブルース

継続はチカラかな

現実は常に見切り発車オーライ



第一回「青空会議」から一週間経とうとしている。
いろいろと感ずるところがあったのですが、
「打倒!陰謀説と不思議発見」が途中だったのでヤキモキしていました。
ようやく語れる。ロマン議長遅くなってごめんね。

参加者七人+飛び入り二人+祝電一人でしたが
邂逅というものの不思議さを痛感しました。

まず、ロマン議長の自己紹介で、
なぜ、こんなことをはじめたか、の動機の件。

それは十数年前にロマン議長に子供が産まれて
我が子を抱いたときに思ったことからはじまった。

わたしも強く記憶に残っている。生涯最良の日の想い出だ。

その感動のなかで、ロマン議長は何を思ったか?

「世界にはこんな祝福のなかでもそのまま死んでしまう小さい命がたくさんある」

そんなことを彼は考えていた。
そして、できればその子達になにかしてやりたい。
たとえ救えなくとも笑って死んでいけないものか。幸せのなかで
抱きしめてあげたい。見守ってやりたい。
なにかしてあげたい。なにかしないといけない・・・

そんなことをことを感じていた。

実は、これと同じ事を考えた友人がいた。
この話を聞いたときにわたしはデジャブ現象というか
不思議な気持になりました。

それがロマン議長に(ケータイ)祝電をおくった人です。

母性の強い女性でね。
四人の子育てを終えつつある、彼女の夢は
そういった絶望と不安のなかで死んでいく子供達を抱きしめてあげたい。
笑ってその死を受け容れられる。まずそんなあまりにもささやかなものでした。
そして井戸をつくったり、医療支援をしたり・・・
でも、彼女の切迫した想いはその子たちの不安をなんとかしたい。

自分のことさえ大変なのに、
見ず知らずの、他人の、違う国の子供らのことを、想う人

わたしは眩しかったなあ。

なんか明治の日本人を想いだした。
荒尾精とか、結城虎五郎とか、頭山満とか、石光真清とか、杉山とか
懐かし日本人の姿を重ねた。

そういうことが今の日本では批判とか否定されている。
大人は、誠しやかに
「自分にことさえ充分にできないのに、他人のことなどかまけるな」
という。

大人だけじゃない

彼女の在り方をブログで紹介してみた。案の定
「ボランティアの知識がない。現実をもっと知るべき」という。
若い情報通というか経験者が批判した。

わたしはそうは思わない。

準備万端で、やる。ことでもないと思う。
幸い、わたしはもう若くないので、
そのことを甘いとか青いとかいわれることはなくなったけれど
まあ変な人とは思われるかもね。

変な人で結構。バカで結構。と思う。

人間、どこかで、自分のことは放っておいても
誰かのために何かをしたい。という欲求、欲望、情熱があるものだ。
それこそが、人間を動かすエロティズムだと。
以前、馬太郎ブログでも書きました。

利権利害損得、立身出世、贅沢三昧、美食、悦楽享楽、温泉、海外旅行・・・
そんなものよりも格段に大きいエロティズムがある。

歴史が動くときとは、そういったエロティズムに動かされて
人間は奔走するものです。
たとえば、明治維新とは単なる利権の攻防戦ではなかった。
それを、以降の藩閥を例にとって、そういうものだったと解説する
有識者もいる。
確かにその後で、そういう連中もいて、結果としてそんなこともあっただろう。

でもさ、それじゃあ、そんな連中では、何も変わらなかった。

西郷や大久保や高杉や桂や勝や龍馬は準備万端で行動を起こしたわけじゃないし、
利権や立身出世を求めたわけじゃない。
伊藤博文だってそうだ。山県は疑問だけど(汗)、でも山県だって事情があった。


そんななかで、参加者の一人にハンドルネーム「以蔵」さんという若者がいた。
彼なりに何かをしたいと考えた。でも自分には知識も経験も何もない。
そんな彼が幕末の志士に自分をなぞらえてみて、
自分は何もできないけれど、岡田以蔵のように人斬り、テロだったら
できるかもしれない。と考えて彼は「以蔵」と名乗り、参加した。
なんか切ない。

「以蔵」さん、あなたを人斬りなんかにはしないよ。
この革命は無血革命で極楽宴会革命だ。
ここには武市半平太はいない。



「青空会議」疾風録(1)