あかんたれブルース

継続はチカラかな

原爆の賛否




  「原爆」という事実で被害者意識をもつのではなく
  「戦争」という犯罪から加害者であることを忘れて、
   それを棚上げして侵略戦争の責任転換して
   他国への批判にかえてはいけない。

というニュアンスの意見を頂きました。

非常にドラスティックな意見で
捉え方によっては反発する人も多いかもしれない。
わたし自身、それ以外のこの「正論」に苦笑いをしてしまう。
しかし、厄介なことに、その表現や各論はさておき。

これまでこのブログで
戦争のメカニズムと人間の関わり合いを紹介しつつ、
戦争責任を誰かのせいにするのではなく
これは、
日本国民全体の責任であり、それは流された。
という以上でも、以下でもない。
ということと本筋では同じということです。

先日は別な所で『平和への道筋』に対しても
そんなことを訴えても意味がないという意見を目にしました。
かといってこの人も戦争に賛成しているわけじゃない。
苛立っていることは確かですが・・・。

一人一人の考えは基本的に同じなのに
表現の仕方とかスタンスでまとまらない。難しいものだと思います。

色々な考え方はあってもいい。それは当然であって
それを力業でまとめようとするところに無理があるんだろうと思う。


わたしは、『石光真清の手記』のこの言葉が好きです。

 「人間の生活感情や思想は互いに共通する部分の方が、
  相反する部分より遙かに多いのに、相違点を誇大に強調して対立抗争している。
  僅かな意見の相違や派閥や行きがかりのために、
  ただでさえ不幸になりがちな人生を救いがたい不幸に追い込んでしまう。
  情けないことである。
  なにか大きなものが間違っていて、私たち人間を奴隷のようにかりたてている。
  一国の歴史、一民族の歴史は英雄や賢者によって作られたかのように教えられてきた。
  教えられ、そう信じて己を律して暮らして来たが…だが待て、
  それは間違っていなかったか」


一番の問題は、
無関心にあることだと思う。
そして、
無責任であることだと思う。
また、
不安に脅えて勇気のないことだと思う。

伝える、理解しあう、そういったことを
面倒だと考えて逃げてまることでもあり、
己を保つために、他に迎合するか、否定するかの
選択肢しか持ち得ない不自由さにある思います。

人、一人の力は確かに非力ではあるけれども
それは決して無力ではない。
非力と無力は違う。
これは、言葉遊びや禅問答ではありません。

ちっぽけな小さな力でも
それが結ばれれば大きな力になる。
これは決して思想の統一とかではなく、
それぞれが異質であってもある部分の、核の部分の共通性だけで
充分にクリアできることだと思います。

それが杉山茂丸頭山満中江兆民伊藤博文の(交友)関係にも
あったなよなあ〜と。
わたしは想いを馳せるのでした。