あかんたれブルース

継続はチカラかな

己というものについて



人間の求めるものは「自由」であると記しました。

人は束縛やしがらみを嫌い、自由を求めます。
けれども、これがなかなか厄介で、自由を履き違えたり、また
その自由の重さに絶えられず、再び束縛を求め安堵したりする。
愛とか自由とかを簡単にいうけれども、それはなかなか大変なものです。

その自由というものの、一番の障害となるものは何か?
私たちはそれを自問する。たいがいはそれを「環境」のせいにします。
「お金のせいにしたり」「会社のせい」「社会のせい」「政治のせい」
「自分の容姿のせいにしたり」「他人のせいにしたり」しますが、
私たちの求める自由の障害は自分自身の「己」というものであると思います。

私たちは自分を守ろうとする本能がある。
これは、当然のことですが、これが過ぎると、自己保身となって
身動きがとれなくなってしまう。
個人主義の危険性はここにある。
これが拡大すると、昨今話題の自己肥大へとつながるのでしょう。

本来、人間が畜生同様に、本能だけで生きられた
こんなジレンマはないのでしょうが、エデンの園かどこそこかで
禁断の木の実なる「智恵」を有してしまった。
だから、本能はあるにしても、それだけでは身が持たない。
人間の知恵とは、自由を勝ち得たい欲望を知ってしまったことなではないか。
エスが「人はパンのみに生きるものではない」とか言ったのは
パンを本能置き換えれば、なんとなく納得もできる、気もします。

人間は常に不安に苛まれているものです。
それは知性とか智恵の証です。
それには自信が必要です。アイデンティティーを持ち得たい。
しかし、おおかたの人間はモラトリアムのままで流されている。
見ないように、気にしないように、そればかりに注意している。
けれども、魂の渇望は満たされない。

方法はないのか?

先人たちは様々な取り組みをしました。
信仰や宗教であったり、思想であったり、制度やシステムだったりした。
けれども、これはあくまでも人間一個人の問題であり、
環境だけでは解決はしない。それにどんな仕組みも必ず人間が関わっている。

その先人たちのなかで、
この不自由さの正体を「己」にあると達観した者たちがいました。
そして、「己を空しくさせる」という方法論を見出した。

また、その前提として、そのための「熱狂」を求めた。
これは、熱く狂うという行為です。
狂うとは、己を顧みずに集中できることです。他者からみれば狂っていると映るでしょう。

わたしはこれをエロティシズムとかロマンティシズムと表現してきました。

愛もそれであり、志というものそれです。
愛を、恋愛だけに限定するのは間違いですが、
ただ、自分のことを横に置いて、相手のことを想う恋愛も母性愛も
その意味では熱狂以外のなにものではない。

日本人の恥の文化のことを話しましたよね。
この恥には「自分のことを優先する行為」に対する卑しさ恥じる意味があります。
だから、その誤解の一部でしょうが、目立ったり、良い格好をしてると
見られることを恥じたりするのは、その一部の現れでしょうが
次元の低い恐れや不安なのだと思います。

そういったものを払拭するには大義というかテーマというか目標が重要だと
いうところまでは、なんとか理解できると思う。
それだけでも、大したものだと思いますよ。偉いものだと。
また、それは効果的であり、正解だと思います。
問題は、そこからです。

さて、しきちゃんの話です。

彼女も、それを感じた。そして、それを求めました。
それが、彼女の平和への貢献なんだと思います。
彼女の原爆被害を被害者意識にすり替えてはいけない。根本は戦争にある。
という意見には、わたしも強く頷く。表現は別として、です。

問題は、そのことを訴える手法でした。
その遣り方をみて、わたしは
「しきちゃん、君は己が強すぎる」と指摘しました。
六合目付近まで登ったしきちゃんが登山道を誤っているので
そう指摘しました。

もともとが、己という厄介な代物を抑えるための志なのですが
彼女は、ああいっても不安や心配がある。
「自分は間違っていないだろうかと」いう揺れとブレがある。
でも、彼女はもう立ち止まれないし、後戻りもできない。
とにかく、ど根性で突っ走るしか、選択肢がありません。
その大義は間違ってはいないのだから、と。

けれども、そこには保身がある。
その大義を言い訳にして、自分を守ろうとしている。
いつしか、彼女は己を守ろうとしている。だから、そのためにも
強くなければならない。在らねばならない。これがしきちゃんの
「己が強い」原因です。

彼女はわたしたちが思うほど強くもなければ、バカでもない。
矛盾だけの、どうしようもない文章のなかにも
素直な本質も見ようにみればそれはある。
彼女は弱い自分を奮い立たせるために、必死に強くあろうとする。

しきちゃんを批判したり論破することはさほど難しいことじゃない。
でも誰もしきちゃんを説得はできないと思う。
たぶん、最後は、しきちゃんは「嫌われ者のしきちゃん」を勲章のようにして
去っていくでよう。
自分以外のものは洗脳されている、毒されているとして、聖職者となる。
そして、わたしたちは誰も顧みることはない。そこでお仕舞い。

でもさ、わたしは思う。
自由の渇望をそこまで集約させて行動に奔り
六合目までは這い上がったしきちゃんは、たとえそれが北朝鮮だろうが
偉いと思います。
わたしが、彼女に腹を括っているねと表現したのそのことからで
別に皮肉でも嫌味でもありません。
同じ匂いがしました。それはつ〜たんも同じです。ちゃんと聞きました。
もしかすると、ムッシュも同意はしないけれど、わかっているかも。

だから、しきちゃんの暴走が痛かったのです。
ロマン議長に同情したというよりも、しきちゃんのことのほうが心配だった。
ロマン議長すんません!

しきちゃん、君がやっていることは正しいけれど間違っている。
そのひとつ、いつしか君は初心から乖離して保身に奔っている。
それは君のプライドからすれば一番恥ずべきことであり
わたしなんかから指摘されることは我慢ならないだろうけれど、
それはどこまでいってもどこまで逃げてもついてまわってきます。
せっかく、六合目まで頑張ってきたわけじゃないか。

わたしの尊敬する明治の男達、ロマンティストさんたちには
ある共通のテーマがありました。それは

「アジアの保全」です。

これが、荒尾精、杉山茂丸頭山満宮崎滔天などの志だった。

右翼も左翼も関係ないのです。
そういう棲み分け理論がデタラメなんだ。
世の中には正義とか悪とかでは区別できません。
あるのは
本物か偽物か未熟ものだけです。
私たちは未熟者ではあるけれど、本物を目指さないといけない。
楽な生き方や、保身に転ぶと、偽物に傾いてしまいます。

己が強すぎる。という話。
これで理解できなければ、いってください。
いくらでも、わかるまで記事にします。