あかんたれブルース

継続はチカラかな

私たちの戦争責任

天皇と戦争の責任(3)


日本人として、(先の戦争に対する)
戦争責任を訴えられている。

日本人として、その戦争責任を感じることは大切なことだ。

しかし、では、どう責任を取ればいいのだろう。

謝罪なのか? 具体的に誰にどうやって?
ここが漠然としていると思う。

来年のお盆休みはHISで格安ツアーの
東南アジア3泊5日巡礼ツアーでもいくか。
現地の方々と交流して、深く謝罪を述べる。
意味のないことではない。
現地にお金を落とすだけでも意義があるかもしれない。

政府に公式に謝罪させる。それは賛否があって(法的にも)なかなか難しらしい。
現在、日本の戦争責任を訴える人々はそれを目的としているのだとうが
その手法ではいまひとつ効果がないようだ。

だから、これは私たちが自発的にやる。
そうすれば、この理不尽な自爆から逃れるられるかもしれない。
逃れるとは、戦争責任自体からではない。
理不尽な戦争責任の糾弾からである。

後手にまわって、先送りするから、後ろめたくなり、罠にはまる。
先に自発的にやろう。

で、どういう責任をとるか、だが・・・
昨夜から考えた。

原爆の事実を知り、それを伝えていく。
これも立派な戦争責任であると思う。
このことで、私たちは被害者意識をもってはならない。
せっかくの戦争責任にケチをつけられてしまう。
腹が立つので、禁じ手だ。要注意である。

戦争責任とは、その戦争のことを知ることである。

これだ! 解けた。


もし、よくも知らない連中が浅はかな知識や
一方的な片寄った知識で、君に戦争責任を訴え追求したら、
言ってやればいい。

「お前に、戦争責任を言う資格はない」と。

言われたものが、言われた相手より
よく知らなかったら、自己責任である。
黙るか、自虐カルト信者になっても誰も責任はとらない。
自業自得というものだ。サボった罰があたったのだ。

旧文部省は近現代史を教えないという方針だったという。
これこそが問題であり、現在の厄災のすべてである。
しかし、学校で教わることなどたかが知れている。
そういうのは独自で自主的にやる。
それが、私たち日本人の責任である。いや義務かもしれない。

民主主義の権利は、義務をはたしてこそ与えられるものだ。違うだろうか。

この国に生まれた「宿命」として、
その戦争責任は、はたさなければいけない。

だから、この国の、あの戦争の歴史を知ろうよ。

まず、ここから、スタートなのだと思う。
そして、いい加減な歴史認識の戦争責任の糾弾者には言ってやれ。

「お前に戦争責任を言う資格はない」と。


これで呪縛はとける。
無論自爆も