あかんたれブルース

継続はチカラかな

「旅人」宮城谷昌光

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 先日、NHKで中国の明朝時代にアジアからアフリカまでの大航海を成し遂げた
 「鄭和(ていわ)」の物語を放送していました。
 これはヨーロッパ諸国の大航海時代以前のもので、なんとコロンブスアメリカ大陸を発見する
 70年前に鄭和は既に発見していたそうです。
 この鄭和大船団は朝貢使節団であり、自由貿易の発展に貢献しました。
 鄭和漢民族ではありません。
 元朝の頃に中央アジアからのイスラム教徒の入植者の一族でなのです。
 共産国家中国にかなりのイスラム教徒が存在する意外もこの辺りに由来するのでしょうか。
 明が中国を統一すると祖父、父と一族郎党は明兵に殺害され、鄭和も宦官にされて都に送られます。
 宦官にされた鄭和が王宮・後宮ではなく、戦場で軍人として立身するところです。
 永楽帝の信頼を得た鄭和はその朝貢外交の責任者として幾多の長い航海の大事業を担います。

 鄭和は幼い頃、祖父のひざの上で「聖地メッカへの巡礼こそがイスラム教徒としての誇り」であり、
 「人生とは旅である」という言葉を鮮烈に記憶に刻んでいました。

 人生とは「旅」なのだ。
 溜め息のでるセリフであります。

 私の好きな作家に宮城谷昌光という中国春秋・戦国時代の作品を手がける作家であります。
 私的にですが、彼の最高傑作として『奇貨居くべし』という長編があります。
 主人公・呂不韋の人生は、まさに「旅」そのものであります。

 宮城谷は純文学から旅立ちました。早稲田文学から立原正秋の知遇を得、編集者として
 文学の道を歩み、挫折します。そして、故郷に帰って、その原点を「漢字」という
 原点から掘り下げるという途方もない旅をスタートさせるのです。
 彼が直木賞作家となるまでには羅針盤のない巡礼者の足跡の記録が綴られるのですが、
 これまた私的ですが第二の恩師、司馬遼太郎との対面を果たしたときに
 日本文学界屈指の語り部となっていました。(私的ですよ)
 純文学を目指した二人の作家は歴史小説家として生涯一度だけの対面を果たすのです。
 司馬は初対面の宮城谷に放った最初の言葉は
 「宮城谷さん、あなたは勉強してますねぇ」という言葉だったそうです。
 直木賞の選考委員から、その言葉の解釈に疑問を投げかけられて憤慨した彼の閉塞は
 その一言で払拭されたのです。その言葉がどれほど宮城谷とって嬉しかったことか。
 司馬はその後、すぐに他界してしまい、再会することはありせんでした。
 宮城谷は泣きました。
 すでに、立原正秋もこの世を去ったいま、これから、なにを指針にして歩んでいくのか。
 宮城谷昌光の新たな旅がこうしてはじまるのでした。
 私的には司馬遼太郎の後継者とは宮城谷昌光である。と、納得しているのですが。
 『奇貨居くべし』
 明治モノではありませんが、機会があったら是非どうぞ。