あかんたれブルース

継続はチカラかな

むっしゅへの幸福の手紙



帰宅してみると、ジョニーからではなくマリーでもなく
むっしゅからの伝言が届いていた。

>私は、佐倉哲氏の
>「幸福の追求は無意味であり不毛な努力である」
>との主張に同意いたします。
幸福の追求
http://www.j-world.com/usr/sakura/think/happiness.html

わたしは五番街のむっしゅに手紙を書きます。

むっしゅ、伝言読んだよ。
そのうえで僕の考えを綴ります。

幸福とか幸せとは、個人的なものだと思うのだ。
それは、すべては「思い込み」である。ということです。
100万円もらって幸せな人もいれば、100万円しか貰えなかったと不満を漏らす人もいる。
その時の状況や環境や思惑目論見によっても変わってくるし、
お金だけに限ることでもない。

『「幸福」なるものを目標として立て、それに向かって意識的に努力する、
 というようなふるまいを、一切、そのとき以来捨ててしまったのです。
 そのときから、幸福の問題は、実に自然に、解消してしまったのです。』

だから、これも佐倉哲氏の個人的な方法であって、思い込みであると思う。
このやり方でいける人はそうすればいいと思います。

わたしの場合はこれじゃあ二秒保ちそうにない(汗)。

『人間というものは、いかなる状況にあろうとも、
 幸福であると言えば幸福であると言えるし、不幸であると言えば不幸であるとも言えるからです。』

そりゃそうだろうけれど、修験者の火渡りや荒行じゃないし、
夜と霧のユダヤ人捕虜収容所の断末魔の悟りのような気もしないでもない。
こういった力業じゃなくて、もっと楽しいのが好みなんだ。

佐倉哲氏は思い込みのトリックを解説しているけれど、
氏の理論も結局は思い込みの枠から越えていないし、
また、前記したようにすべては思い込みなんだと思います。
要は、その理論がどこまで説得力があるか、肌に合うかなのだと。

佐倉哲氏の理論はその意味で「わたし」には言葉遊びの枠を越えていない。
もっとも、氏に対して
「真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう」などいう挑発などしないけどさ。

真理。そして、ソクラテスから「無知」という言葉が引用されていました。
要は幸せに対する具体性について、なのだと思います。

今回の『手と声の輪』のテーマ「幸せ」については
あまりにもその意味が大きくてすべては書き切れないのだけれど
わたしは「楽しい(みんなと一緒の)食事」として提案してみた。
食事、食べることで、
もう一度、幸せの価値観というものを考えてみたかったのです。
そして、「楽しい」という基本に立ち戻ってみたかった。

これならば、万人に理解されやすいと考えました。

そして、思うことは
「わかっていても出来ないことがある」
ということです。

これもまた世の中の、人生の、現実でもある。
けれども、わたしは
『幸福に向かって努力することは無駄な努力』
とは思わない。

その努力が苦行や我慢じゃなくて
楽しければいいんじゃないかな。要は、
なにを楽しいと感じるか。

目的到達の達成云々よりも
人生は旅であり、その過程の風景を楽しんでいたり
旅の途中の邂逅や奇跡に感動したりする。

ここに幸せを感じます。

また、真理という言葉の手前に現実というものを捉えれば
人間は現実のなかだけでは生きていけないものだと思う。
目には見えないもの
そういったものを支えや手がかりにして
テクテクと歩いていくものだと思います。わたしはね。

どんな方法論でも方策でもかまわない。
その人にあったものでかまわない。
幸せは個人的な思い込みでしかないのだから

わたしは画一化された現在の価値観を
揺らしてみたかったのです。
金の亡者やら悟りの亡者やら常識の亡者やらを揺らして
最終的にはぶっ壊してやる腹づもりですが、これはまだ内緒だよ。うっしっし(笑)

>人がすべきことは
>「今を生きること」であり
>かつ
>人にできることは
>「今を生きること」だけである。
>と私は考えます。

その通りだと思います。
わたしの青い鳥は、愛すべきものです。
見つけたらまず手当たり次第に抱きしめる。
そのとき、幸せに包まれます。

直線で結べない道がこの世にはあるという。
迷った道がわたしのあなたのみんなの人生です。

本格芋焼酎馬太郎

むっしゅへの「幸福の手紙
尚、この手紙を受けとったら24時間以内に
三人の人に手紙を出さなければいけません。

で、ないと
老ける。