あかんたれブルース

継続はチカラかな

『手と声の輪』〜テーマ「家族」〜



山田洋次の70年代の作品にそういうタイトルのものがあります。
連作になっていて『故郷』というのもあり
昔テレビで観ました。
長崎から北海道へ、一家が移住する話。
ストーリーはほとんど忘れていますが、
笠智衆のお祖父さんがラストに死ぬシーンが印象的だった。
ふと、今回の「家族」のテーマで思い出してしまいました。

アメリカ映画が家族の絆をテーマにするようになって久しい。
それはディズニーだけではなく、基本コンセプトとして定番化されている。
それほどに、重要なテーマであり、アメリカの家族が危機的状況だということですよね。

大草原の小さな家でさえも、それなわけだ。

その兆候がでたのは西部劇『シェーン』からではないかと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3

1953年に、その危機はアメリカ社会にすでにあったわけです。
良妻賢母を演じた女優ジーン・アーサー
社会参画するキャリアウーマンのイメージキャラでした。
当時の観客はそれで悟ったはずです。

わたし自身、男女差別や女性の社会進出に関連する仕事に深く携わってきました。
そのこと自体が悪いことではないと思う。
核家族の問題はそれ以前からありましたからね。
地方の過疎化、都市部の人口集中などなど

わたしが上京したあとに校内暴力がさかんになったようです。
それを実体験していないのですが、
就職した頃ですかねえ、荒川のコンクリート殺人事件があった。
その頃、近くに住んでいて、荒川の土手を毎日電車で眺めて通勤していた。
以前、取材で加害者を知る人から話を聞いたこともあります。
どうも、そういった逸脱した非行と70年代後半の校内暴力は関係しているようです。

それを、母親の不在という意見で聞きました。
豊かさを求めて、母親が働きに出て
子供達がさびしい思いをしたことから始まったと。


そうなんだろうか?

確かに、そこにさびしさはあったとは思う。けれども、
母親が働くことはそれ以前にもあったはずだ。
そのさびしさの理由は母親の不在だけではないような気がする。

それよりも、なにかとても大切なものと引き替えにした気がする。
豊かさと引き替えにしたもの。
その豊かさとはなんだろう。
一億総中流意識という言葉がありましたっけね。
日本は豊かになった。

家族を引き替えにして、それを選んだ。

今回、自分なりに、家族という定義を考えてみました。
夫婦だけではなんとなく家族とはいえない。
そこに子供が必要です。親兄弟(姉妹)でもかまいません。そこに最小の共同体がある。

豊かさは共同体が煩わしい。
都市型生活者はディンクスでライフスタイルを楽しむ。
個人主義が鉄則となります。
大家族はテレビの特集で充分。そこには貧乏が付随している。
散乱した部屋と大量の洗い物、高いエンゲル係数・・・
モロ生活感あふれるリアリティー

バカの壁で養老さんは日本の共同体は崩壊したといった。
つまり、日本の家族観が崩壊したということでもある。
無機質なトレンディードラマのマンションのセットが基本です。
寅さんの故郷「とらや」の一家団欒は盆暮れだけで充分です。
時間ですよも寺内貫太郎一家の茶の間もドリフのコントも遠い昔だ。
ときおり描かれる食卓シーンもなんか空々しい。
絵空事になってしまっている。世間は鬼ばかりだ。

町内にいたうるさい親爺も死に絶えてしまいましたしね。


家族をもう一度、取り戻さないといけない。
それは少子化問題とかではなくて、私達が失った大切なものを取り戻すことだ。

それは、血縁だけではない。
私達は、人間は、家族を作る。そういう習性がある。
人間はとてもクリエイティブな生き物なのだ。つまり、血縁以外でも
それを作る。

家族を作ろう。

それは駅前のスーパーにも楽天にもアマゾンにも売ってはいません。
けれども、それを望み、そう在れば、それは得られる。
それは時々頭を抱えることはあっても
とても楽しくて嬉しくて温かい
利害の希薄な世界。
わたしたちがリラックスできる場であると思う。


この記事は、『手と声の輪』企画として書いた記事です。
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha春紫苑『Hand In Hand』参照)