『手と声の輪』〜テーマ「家族」〜 ちょっと早いけど後記かな
昨日、短足おじさん(OG.)のコメントからの考察と
ハルジオンさんの記事でのコメント対話で
だいぶ煮詰まってきました。
煮詰まるとは「出来上がってくる」という意味ですよ。
あくまでも、わたし的にです。
仏教ではさまざな欲求を「煩悩」として戒めます。
いわゆる、執着というものをなくせと。
それがゆえに愛憎が生まれてしまう。
愛さえも渇愛と解釈して、家族や子供さえも邪魔(障害)と考える。
だから、啓蒙本でもよく「こだわるな」とか書いてありますよね。
そうできればいいのですが、なかなかそうはいかないじゃない。
また、こだわらねければいけない事もある時もある。
どこかストイックなんだよな。
別に出家して坊主になろうって話じゃない。
「執着」に対する考え方の見方をかえる切っ掛けは、
『坂の上の雲』での正岡子規の在り方についての
司馬遼太郎の捉え方でした。
それは子規の人間に対する「執着」です。
執着もそう悪くない。
どんな物事にも長短善し悪しというものがある。
過ぎてもダメだし、履き違えてもアカン。力業で白黒つける二極論の問題がある。
なんにしても、その本質を捉える。これがまず大事だと思います。
基本はランダムなもですが、私達は直線的にものを考えてしまう。
だから混乱して煩わしくなって答えを性急にもとめてしまいがちなのかもね。
家族にはふたつのカタチがある。プロセスといってもいいかな。
(以下、ハルジオンさんへのコメントから抜粋)
>血に対する思い込み。歴史的に日本人が養子を多用してきた事実。
>で、仁侠系で残る疑似家族思想。の存在を考えてみます。
>これは大手企業ではホンダが有名です。
>でね、血縁の家族というものは先天的で宿命的なものです。
>後天的な家族というのがあるということだ。疑似家族はこれ。
>電池でいえば前者が直列。後者が並列。
>同じ明るさで後者のほうが長持ちします。
>で、この長持ちという意味を考えてみたんですが、
>これは親離れ子離れにあるんじゃないかな。
>血縁の家族は宿命ではあるけれど、その宿命に期間限定があり、
>社会に出る、独立するということは新しい家族(結婚)(疑似家族)を
>形成していくことにある。もちろんだからといって
>宿命的家族を否定するものではありません。
>両方がありえるわけですね。二極論じゃない。ってこと。
という感じです。
社会性が薄れたから血縁を拠り所にする傾向が高くなったのでしょう。
かといって、血縁自体を否定するものではありません。
ただし、すべては「思い込み」であることを忘れてはいけない。
世の中はすべて思い込みで動いている。
この記事は、『手と声の輪』
(http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha春紫苑『Hand In Hand』参照)企画として書いた記事です