あかんたれブルース

継続はチカラかな

もっと、考えてみる。

生死観と性愛観(18)


愛の本質を明らかにするために
近世までは日本に愛は存在しなかったとします。
「そんなことはない!」と口を尖らす人も多いでしょうが、
まあ基本は暴論の仮説です。結論を急がずに聞いてみて。

明治に入って西洋文明を輸入したとき色々な外来語が翻訳された。
そのなかで、たぶん聖書あたりの “Love”の翻訳に困って
「愛」という言葉に置き換えた。間違いではないのでしょうが、完璧じゃない。

以前、この件で、米国生活経験者のやまさんにリサーチしたところ
欧米人の“Love”はもっとシンプルなものだという答えをもらいました。
たとえば「好き」っていうような感じです。

日本人の場合はもっと崇高なイメージですよね。
そのくせ恋愛に特化させる傾向もある。
親子の愛は否定ができない。愛国はタブーになっていますが(汗)
しかし、単純に「好き」でも意味は通ります。
でもそれじゃ軽すぎて納得できない人もいるかもしれませんね。
ただし、もしかするとそういったこだわりは日本人だけかもしれない。

では、あて字の「愛」は間違っていたのかというとそうでもない。
この愛は東洋的な、仏教的な、愛です。

東洋的な愛とは儒教の影響で上下関係が存在します。
朱子学などで用いられる、主従の関係など縦軸の愛です。
施政者と民衆の関係でもある。

仏教的な愛とは、たとえば慈愛、慈悲とかでしょう。
一番わかりやすいのが母親の愛、母性愛でしょうかね。
ここにも上下関係があって、立場の上下以上に、強さ弱さの関係もある。
イジメなどの問題は愛が足りないから起こる。
通常は弱い者イジメはしないんですが、それをやって保身に奔るのは
そこに愛がないからだ。

ま、そんなわけでこういった縦軸の愛は日本人にも理解できた。
聖書の愛の大枠でそういったニュアンスだったと思います。
けれども、それだけじゃない。
縦があれば、横もある。横軸の愛もあるわけだ。

対等の愛。これが恋愛だったり、友情だったりするのでしょう。

無法松の一生』の話で、日本人が愛を認識するうえで
「恋愛」に特化させて流布されてしまった。と記しました。
どうもその辺からボタンの掛け違いがあるようです。

「自由」とか「平等」という言葉は崇高な言葉としてもてはやされている。
最近になってようやく北野たけしが「平等なんてありえない」と勇気ある
発言からその呪縛が解かれました。
「自由」だって、実際にそれを持て余してしまうことを私達は知っている。
その不安から「束縛」をもとめたりすることを知っている。
わたしは「民主主義」だって懐疑しちゃうもんね。
この件もようやく市民権をえられるようになるかもしれない。
テレビの有識者やキャスターが大みえを切るあの「民主主義」。

「愛」もそうです。
逆にいえば「死」もそうです。

信奉し、賛美したり、忌み嫌ったりはするけれど、
実は、漠然としていて曖昧で、それ以上考えないようにしている。
わかったようなふりをしている。

だから矛盾が起きるのだ。

愛は素晴らしいという。
しかし同時に、愛は苦しいという。

それで地球を救うといっているものが
苦しいとは何事ゾ。

すべての人を愛そういう。
それじゃあ隣の若妻をわたしは愛します。
「ちょっと待てよ」
「なんだ君は、止めるなよ」
「それとこれとは話が違うだろ」

すべての人を愛そうっていったじゃないか!
愛は素晴らしいはずなのに、なぜこんなに不自由で条件付きなの?