生死観と性愛観(17)
嫉妬については以前小特集を組んでみんなと話あいました。
女の嫉妬が定番だけれども、男の嫉妬もえげつない。
そのな感じで横道にそれましたが、
まあ、基本的に嫉妬は好ましいものじゃない。
執着も同じ村のものです。
それを無くせと諭される。こだわりもそれ。こだわるなと言う。
しかし、こだわらない訳にはいかない。
まず、ここはひっくり返せるんだ。
「わたしはこだわる!」
で、難攻不落と思われた「執着」が昨日記事にした
『坂の上の雲』の正岡子規に対する司馬遼太郎の「執着」考で203高地陥落。
要は、何にこだわるか、何に執着するか、ですね。
その度合いにもよりますが
これをまったく無くすというのも、また不自然な気がします。
そういうのがなくなった恋人同士とか夫婦っていうのも
ゴビ砂漠の大遠征。って感じです。
こんなことを考えてしまうのは
夜這いの文化には、こと性に関しては嫉妬がなかった?という考えてします。
それを性の価値観の相違としたけれど、それでも納得できない。
ここで、仮説として
「それ以前までは『愛』がなかった」としてみる。
それ以前とは、明治文明開化以前、戸籍制度が制定される以前。
もしくは日本人が都市型社会に変わる以前。とかです。
暴論だとは思うのです。
感情的に否定されるだろうし、分も悪い。
でもね、夜這いの文化を認めると
セックスとプラトニックを分離せざる負えない。
それも素直に納得できないじゃないですか。
人間(日本人は、にしとこうかな)は近代化以前、
愛を認識していなかった。
その近代化とは「豊かさ」にあるのではないか?
それならば、豊かになったはずの日本に
なぜ愛は降臨しないのか。むしろ愛は不足しているじゃないか。
となります。
そこで愛のプロセス進化論を提示したいと思います。
つづく