あかんたれブルース

継続はチカラかな

『手と声の輪』〜テーマ「愛」〜

第三回のテーマは「愛」ということです。愛をテーマにして、このブログでは何度もシリーズとして、何度も記事にしてきたものです。現に今でも「生死観と性愛観」で連載真っ最中だ。それを記事一本勝負でまとめなきゃならない。困ったタヌキだ。軽く大全集がつくれる。でも誰も読まない。みんな知っていると相手にしてくれないのだ。どこにでも誰にでも愛はある。日本人は水と安全はタダで手に入ると思っているように、地球人が酸素はタダで手に入ると考えているように思われているように、今日も巷で愛は語られている。

試みに、こんな意地悪な質問をしてみる。
「愛とお金はどっちが大事ですか?」

それまで、愛を賛美していたのに、急に態度が豹変するんだ。君子でもないくせに

そして、『愛は大切だけれどもお金がなければ生きていけないので・・・』
やっぱり
お金です。
となる比率72%。

間違っている。
まず第一に、愛とお金は次元の違うもので比較するものではない。
次に第二に、お金を取ったからといって愛を手放すとは限らない。
どこかで逆上し冷静さを欠いているとしかいえない。なぜ?
そんな極論を持ち出すならば、お金があってもモノを買えないこともある。
アマゾンのジャングルでお金があっても生きてはいけないじゃない。
紙幣(貨幣)が紙くずになった歴史は五万とあるわけだ。
どっちにしろ、くだらない質問とつまらない答えでしかないのだけれど、
でもそれに付き合うとすれば、
愛がなければ生きてはいけないものではないだろうか?

まるで人間にとって酸素のようにそれは必要不可欠なものともいえる。

みんな愛を求めている。
人間は海女さんのようなもので、素潜りして真珠貝やアワビやサザエを
獲っているようなものかもしれません。
どこまで息が続くか・・・酸欠になる。ボンベがあっても同じです。
潜水病になることだってある。

息苦しいこの世界、この社会、この環境、
それはアメリカやロシアや中国や北朝鮮のせいではない。
民主党自民党のせいではない。政策や制度の問題ではなく、
愛が足りないのだ。

私達は愛を求めてはいる。
けれども、求めてはいても与えようとしない。
そんなむしのよい了見で愛は得られません。
愛は循環してはじめて得られるからだ。

循環のメカニズムには、無償の愛と自己愛があります。
この相反するものが愛の本質で表裏一体のものだと、思う。いやそうだ。
断定して言い切ってしまいます。
自分をほおっておける愛する対象。その熱狂に人間は歓びを感じます。
そして自分を認めることができる。

人間は自由をもとめている。
生きる、現実の柵から解き放たれたいと願っています。
自分が生きるために他人を押しのけて生きることが嫌なんだ。ホントはね。
しかし、生きる現実には必ずそういったものがついてまわるものです。
そういうことを、本当は嫌がっている。
かといってそうせざる負えないから悩んでしまうのです。

そのために愛が必要です。

よく、現実は現実はというけれど、
人間はそういった現実だけでは生きていけないのです。
だからこそ愛が必要であって、愛を求めるのだ。

そんな難しい理屈じゃない。

かといって、解ったからといって得られるものでもない。
現実の厳しさとはそういうことをいうのだと思います。
まずアクションを起こすことです。
愛するものをみつけて、愛す。そういうことです。
博愛なって最初から胃ケイレンをおこすようなものを丸飲みしないで
まず身近なところからはじめてみるのがようかと思います。

結局、それがなければ生きていけないのだから
そうするしかないじゃないですか。結局はね。
最初の話に戻して、お金と愛の比較論。
そんな大切なお金でも「命の次に」と相場は決まっている。
愛は、どうか?

少なくとも、命とお金の次。もしくは、それがなければ生きていけないのなら
愛≧命かもしれませんよね。

愛を語るには俗な記事で申し訳ない。
「利」で説くのが効果的かと思ったです。次回はもっとロマンチックに囁きます。

もちろん、あなたに


この記事は、『手と声の輪』
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha春紫苑『Hand In Hand』参照)
企画として書いた記事です。