あかんたれブルース

継続はチカラかな

【第1回座談会より】テーマ〜喜怒哀楽〜

「手と声の輪」で喜怒哀楽について語られました。
AKARIちゃんはそれを『動』と『静』に分け、雫さんはそれを『自他』と『自己』に分類して「自由」を導き出した。
http://blogs.yahoo.co.jp/tengenji_haku/18859734.html
非常にスリリングなアプローチです。わたしは、この喜怒哀楽を個別区分するのではなく、真横に二等分して
「陰」と「陽」にわけてみたいと思います。そこから具体的な話で展開させてみたいと思う。


私達は喜怒哀楽を怖れている。
できればこれを抑えようとします。
喜は、オープンでそれを開帳すると嫉妬を生んでしまう。
怒は、摩擦や衝突を生み、諍いとなり
生産性や発展を妨げる。
哀は、心を萎ませて遠い彼方に置き去りにしてしまう。
楽は、惰性や堕落のなかで感性を麻痺させて
厄災を呼んでしまう。

馬太郎は恐れを忘れた(現代)日本人といった
切り口で記事を書いたりしていますが、
根本の核の部分で、
こういった呪縛がある。のだとも思う。
誰しもが幸せを望んでいるのに、
実はそれを怖れているのだ。

喜怒哀楽を抑えようとしている。
ハンドリングとか
コントロールだといいのでしょうが、
それが難しいので
手っ取り早く抑えることにしているのでしょうか。

ここに日本人の恥の文化の影響があります。いや、思う。

喜怒哀楽をあらわにすることは
心を読まれて見透かされてしまうことです。
これを恥と考える。そんな癖が身についているようです。
でなければ、
最初からそういった感情をもたないことを上策とする。

感性を封印してしまう。

合理的なのか? 短絡的なのか? 
それとも切ないことなのでしょうか・・・

とは別に
時代にはトレンドがあるものです。
表情の乏しい日本人と外国人からの指摘
それによる反省として
日本人のグローバル化やら合理性やら
知性のパフォーマンスを
それと重ねたとすれば、これもまた
短絡的であり、非常に切ない。

なかでも喜怒哀楽の「怒」は最大のターゲットです。

かおりくんは重度のうつ病に苦しんでいる。
二ヶ月に一回、安否確認で電話を入れます。
昨年末、暮れの30日でしたか、お昼近くに電話した。
例によってひっくり返っていました。キッチンの床で。
彼女がまだここまで酷くないとき、
ブログでたくさんの詩を綴っていました。
それは彼女の祈りでもあった。
朝、目をさまして、彼女は祈るのです。
正当に自分自身であれますように・・・
「正当に怒れますように」

切なかった。
これだけの、たったこれだけのことを
彼女は毎朝祈っている。
それが、できないのだ。

自己嫌悪というものがある。
だれにでもあるものです。できれば
ここから逃れたい。
それでもそれは影のようにまとわりついてくる。

正当に怒れますように・・・

かおり君のどこが異常だというのか。
わたしはそのことに憤る。
彼女が足を踏み入れてしまった闇の迷宮を
しくじりだと指摘する者に
わたしは憤るね。怒る!

そりゃさ、要はさ、上手にできればいいんだ。
バランスなんだと思う。そうなんだけれど、
その駆け引きが難しい。
結局はガサツで無神経で手前勝手な連中が
万歳三唱で闊歩してる。
わたしはそういう理不尽に腹を立てているわけだ。

短気は損気。
こればっかりは昔から腹を立てるなと諭されています。

JJ. がね、やっぱり「怒」を抑えるタイプだ。
感情の起伏が激しくて、
たくさんの失敗と反省を経験してきました。
それでいまはそれを抑えようとしている。
偉い奴だと思う。
上手くそれをコントロールできないことを
知っているからだ。
彼を混乱させてはいけないことはわかっていても、
それでもわたしは
「JJ. それはちびっとストイックだよ」と
囁きます。

怒るときは怒っていいさ。

やさしい日本人がいます。
けれどもそれを察せられない人もいて、
そのやさしさに依存する人もいる。
なんとも理不尽な話がこの世には
五万とあるものです。
そういうのをいつまで続けるのか、
続けられるのか。
わたしは憤る。

問題は喜怒哀楽というよりも、
起伏にあるのだと思う。
人間は感情に支配されています。
それはヘビの鱗のようなもので
右肩上がりの昂揚では順目ですが、
下がるときは一転鱗は逆目にかわり
私達の神経を逆なでしてしまう。
心のささくれを刺激します。これが痛い。

できれば、
この起伏のギャップを穏やかにしたいものだ、と。

身近な中で酷いのが一匹。
山の天気のようでほぼ三日のサイクルです。
いいときは天使か妖精ですが、
次の瞬間には凶暴な山猫か高利貸しの婆です。
それをまったくコントロールできないから、
困ったもんだ(汗)
痛いんだよね。
そういうのが彼女自身を傷つけている。

どうしたらいいんだろうなあ・・・
抑えてもダメだし、むき出しでもダメ。
まあ、十人十色、百人いれば百通り。
本人だけじゃなくて環境もあるしね。

それでも、誰しもが幸せになりたいと願っている。

かおり君の言葉が心を揺らすよ
「どうか正当に怒れますように・・・」

喜怒哀楽を封印しちゃいけない。
たぶん、問題は、その「正当性」にあるんだと思う。
それをどこで判断するか? これが難しいのだと思う。

雫が導き出した「自由」がヒントになる。
とすれば、
己を空しくさせる。この一点に尽きると思います。
それは自虐ではない。犠牲とも違う。
自分のことをほおっておいて、
他者のために喜べる怒れる哀しむ楽しむことだと思う。
そういうものが必要なのだと。
私達に欠けているものがあるとすれば、
そういう存在なのだと思います。
だから、もう自分を責めるのはやめて
己を解放してあげてもいいのではないだろうか。と思う。

わたしはそう思う。


この記事は、『手と声の輪』
http://blogs.yahoo.co.jp/haru_zion_haha (春紫苑『Hand In Hand』参照)企画として書いた記事です。