あかんたれブルース

継続はチカラかな

この平等ってやつが曲者だ。

喜怒哀楽の「怒」(補足)


昨日の記事で「怒」を終えて、「哀」に話を移そうと考えていたのですが、
ふと、「平等」という言葉がわたしをとらえて離さない。

なにかで読んだ・・・でもそれが思い出せない。
もしかすると今回の「手と声の輪」の遣り取りかのなかで
誰かが提示していたのかもしれませんが、思い出せない。
気がついた方がいたら教えてください。


先を急ぐ

怒りの感情、それも衝動的攻撃には
平等思想が影響しているのではないか?

戦後、わたしたちは民主主義と同時に平等思想を得ました。
天は人の上に人を作らず。これは明治の福沢諭吉のキャッチフレーズです。
ということは、
この平等思想は日本の近代化のスローガンだったのかもしれませんね。

しかし、ようやくここにきて「世の中平等じゃない」ということを知る。
その勇気ある発言者はビートたけしだった。彼だから、
彼の立場だから言えたのだ。
他の人が言えば、袋叩きになる可能性大の事実です。
世の中ってものはそういう事を許さないところがある。恐いものです。

世の中、人間は平等じゃない。
人間に平等に与えられているの「死」だけ。とわたしは思う。

その人間は感情(意識)に支配されています。
ここに個人差が生まれる。
同じものを食べても人によって美味さが違うのだ。
同じものを観ても感じ方が違う。
だから、幸せは個人的なものだとします。だろ

なぜ、怒るのか?

いくつも理由はあると思うのですが、そのなかに平等思想の徒花がある。
自分と他人を同じ人間(平等)だと考えるから怒るのではないか?
と考えてみました。

怒り、もっといえば憤りはその平等思想の矛盾から生まれる。
つまり、そうはいっても現実社会は不平等なのだ。
これは、社会的な面と個人的な面で怒りや憤りを生みます。
と同時に、人間は「比較」する思考法を用います。
それによって、現状の位置関係を確認する。
優越感と劣等感がそこにある。

比べてもどうしようもないものにでさえもそれを用いては
一喜一憂してしまう。矛盾に苛まれてしまう。

それでも、ストイックに
この平等の原理原則は死守しようとします。

すくなくとも自分だけはそのスタンスを守ろうとするわけだ。
それはそれで、正しい。しかし、そこでやはり混乱が起きてしまいます。
最近流行の「上から目線」の戒律もそれがゆえの現象なのでしょう。
フェアでいようと一生懸命です。しかし、
相手の思考や感情や価値観と、自分のそれには格差がある。
世の中色々な人がいますからね。
健常者と障害者というだけではく、これはあくまでも個人の感情の話。

そこで、真摯に誠実であろうとするあまりに
どんな人とでも同じ土俵にあがって対峙し衝突してしまう。
これが、「怒」から衝動的攻撃に結ばれるひとつのメカニズムではなかろうか。
と思うのです。

ここには社会性の希薄さ脆弱さもある。
それは経験のなさです。
経験とは、そうですね端的に喧嘩の経験といってもいい。
そういうのを物心ついてから思春期、成人するまでに経験していない。
していないんじゃなくて少ない。かな

イジメと喧嘩は違いますからね。一応誤解のないように。

ま、これも教育の問題かもしれませんが、
そんなことを文部科学省にぶうぶういっても変わらない。
そんなものはあてにならない。そういうところにも平等の呪縛がある。
はやい話が間抜けってやつです。
まず、自分からそういった考えを払拭させることだと思う。

だから、酔っぱらいと喧嘩するな。という言葉が生きてくるんですね。
シラフじゃない、まともじゃないんだ。
だから、そう(衝動的に)怒っても仕方がないのです。
怒る相手が違う。怒り方が違う。


何に怒るか? なぜ怒るか?

昨日の補足として、
この「平等思想の徒花」も記しておきたかったのでした。