あかんたれブルース

継続はチカラかな

かに道楽とラプソディー



ひと月ほど前だったか
眼がやられてパソコンも本もみれないので
久々にかおりくんに電話を入れた。
安否・生存確認です。
相変わらず、抗うつ剤でヘロヘロさんだ。
もう会話が成立しなくなって久しいのですが
この日のかおりくんは冴えてて(?)
『JIN~仁』の話をふってみたら応答してきた。
「へえ、原作も読んでいるんだ」
「昔な、まだうつが酷くなる前」

その頃、わたしの知人が様々な問題を起こしていたので
それとなく溢してみた。

「人と関われば厄介がついてまわるなあ」

そんな言葉が返ってきた。
そこでタイムリミット。
ウルトラマンと同じで長い会話は彼女には負担となる。
リビングでひっくりかえっているので
お腹が冷えてしっこしたくなったと電話は切れた。
先日よし姉もビールでお腹が冷えてしっこしたくなったと
いって電話を切った。

どいつもこいつも便所の近い連中だ!

さて、かおりくんが溢したこの言葉。
それがその欝の要因であるは思ったけれど
それを言う気にはなれない。いまはね。

わたしの好きな歌謡浪曲俵星玄蕃」に
秘伝の槍の極意を蕎麦屋に教えた玄蕃が
別れ際に名前を聞こうとして、
「いやそうじゃない」と思いとどまる場面があります。

言わぬがハナよ人生は~
会うて別れる定めえとかあ~

そう自分に言い聞かせて、独りしみじみと酒を飲む。

俵星玄蕃って人は別に物分りよい人じゃない。
お節介で物好きで単純な熱血漢です。
それでも分別はある。
ここでのポイントは「言わぬがハナ」じゃあないですよ。

人生は邂逅にありと申します。

邂逅は出会いだけじゃなくて別れもセットなのだ。
それを「さよならがだけが人生さ」と儚んでも仕方ない。
だからこそって、ものではないかな。

結局は、プロセスであり記憶なんだと思う。

まっ、それを執着としてみましょうか。
昨今のトレンドはこれを悪とする。
こだわるなとかよくいわれます。
そんなことができるのかなあ、と思う。
日本人に帰化するいうドナルド・キーン
いま正岡子規の本を書いていて、涙しながら書いているという。
子規はこと人間に対しては執着した人でした。
わたしはキーン先生の感動の理由がわかります。

こだわるなとか執着するなとかは
たしかに正しいけれど
それはさ、風邪で熱があるときに冷やせという処方であって
だからといってずっと冷やしっぱなしだと
免疫力が低下するし、仕舞いには低体温症で死ぬぞ(汗)
雪山のテントで冷やしてどうする。
時と場合によるではないか。

しかるに、いまは冷やせとなったら
とにかく冷やす。
ご飯も冷やすし純情も冷やかすし誠実も凍らせる。
そういうのが体に悪いのだと思う。
というと、今度は暖める。
コーラも暖めるし、冷やし中華も暖める、チンチンも暖める。
どうしてそうなんだ?
真理というものを取り違えているのではないかと
思うことが、よくあります。

結局、玄蕃はどうしたか?

行動した。
蹴たててえええええっ、
行くては松坂町!

http://www.youtube.com/watch?v=3yAXS_cUNVo&feature=related