あかんたれブルース

継続はチカラかな

おごる平家はペルシャ人



世の中は矛盾に満ちている。

私達には解決できない問題が多々、たたたたた

考えるに、世の中の矛盾のすべては
人間が人間だけで
解釈し、なんとかしようとするから
無理があるのではないかと
思うのです。

ここで、たとえばなのですが
昨日記事中に入れた「人間を超越する存在」というものを
登場させてみる。
実はこれ、古代から人間が用いた思考の原点だったようです。
そういう意識を現代人は忘れてしまっている。
人間同士だけとか、下手すれば自分個人だけに
特化した思考に無理があるのいいのではないかと
考えるようになった
馬太郎なのでありました。

そういうものを神とか仏とか自然とか天とか宇宙とかとかとか
なんでもいいのですが
意識することが人間の営みとしてごく自然であり
科学とか哲学とか文明はそこから発展してきた。
発展の途中からそれがうやむやになってしまった。
のではないかと、思う。

生死観にしても
生きることが善で死ぬことが悪とか考えてしまう。
冷静に考えれば死は人間に与えられて絶対で平等の宿命であり、
それにいいとかわるいなんてない。
生きることは素晴らしい。は間違いではありませんが
実際には生きることは苦しいことでもある。
悲しいことでもある。

しかし、悲しいということが悪なのだろうか?

愛は悲しいという。

愛するもののために悲しむ。
それを愛といってもさしつかえないと
わたしは思います。

そんな想いをするくらいなら
愛などいらない。出逢わなければよかった。

いえ、わたしは愛するもののために
悲しみたいと思う。

慈悲という言葉は、「慈」と「悲」に分けられるのだそうです。

慈は、施し与えるいう意味があるそうです。
悲は、ただ一緒に悲しむことだそうです。
それでもじゅうぶんなのですね。
そういうことを聞くと非力な自分でも救われるおもいがします。

同情を許さない世の中です。

ぐだぐだ屁理屈ばかりいっても仕方がないと思う。
発想をすこし変えて、
人間を超越する存在ってものを
意識してみるって手があるっていう話でした。

己を空しくさせる。

ということに少し近づける手がかりになるかもしれません。