あかんたれブルース

継続はチカラかな

犬のラプソディー



刃傷沙汰を封印された武士は去勢されました。
もともと職業軍人なのですから泰平の世では厄介者です。

アイデンティティーを失った。
どうしたら生きて往けるのか? 
必死になって考えた結果
武士道というものを

死ぬこと。

と、考えた。

江戸期の日本人は生きることに執着している。
これは古典の怪談噺の特徴としてあらわれてもいます。
たとえば、『蚊食鳥』とか

武士の死は、切腹です。
端で見学すると非常にグロテスクな行為で
それを目の当たりにした外国人は卒倒したものです。

当事者にとっても痛い。内臓が飛び出す。
腹を斬ったって死ねない。悶絶だ。
切腹が即、死と直結しないわけで
だから、「介錯」が必須なんだ。
ある種、究極のS的パフォーマンスだ。
赤穂浪士のハラキリで作法通りに見事にできたのは
内蔵助とごく数人だけだったいいます。

出産と切腹と尿管結石は、痛いよおおおお。

日本人にとって、死は痛くて恐ろしい。
キリスト教の戒律とはまったく別の想像力の賜物か。
だからこそ、それを差し出すことに
価値を見出したんでしょうね。

そんななかで異変が起きました。

男と女の愛の終着駅、情死。

「心中」が大流行します。

これは死を怖れる武士にとってまたしても脅威となった。
なかには、「あれを見習え」と諭す武士もいたほどです。
幕府は重い罰則で取締りを強化する。
しくじって生き残った者は
男は遠島、女は遊女に売られる。
それでも心中はなくならなかった。


強さとはなにか?

死ぬことを怖れないものは強い。

それは狂気でもある。

そういう連中が一番厄介だといわれます。
太平洋戦争のことはまた別の機会に語るとして
逆説的に考えれば、
死を怖れる執着心の強い者は、弱い。

命あってのモノダネだ。一般常識の基本中の基本だった。

そのなかで武士は葛藤していました。
「犬死」と「犬活」

犬死(いぬじに)は説明しなくともわかりますよね。

犬活は「いぬいき」と読むとか

「畳の上で死ぬ」ことを大往生と考える常識とは逆で
それを「畳の上の野垂れ死に」と悔しがった。
まあ、ミエといえばそれまでですが、
そういったものがないと生きていけない。狂っちゃいそうなのだ。

就活、婚活が信奉される現代ではとても遠いかもしれませんね。
でもね、
現代の社会問題として毎年の三万人超えの自殺者と
うつ病の蔓延はこういった生死観の問題にあると思うのだが
どうだろう。


「あなたの様に強い(タフな)人が、
 どうしてそんなに優しくなれるの」

  「強くなければ生きて行けない。
   優しくなれなければ生きている資格がない」
 

そういうこと。