あかんたれブルース

継続はチカラかな

櫓で外海は渡れない



人はその人生で、だれしも一冊の本を書けるといわれます。
その人の人生を綴った自叙伝のことなんでしょうね。

当然そこには平々凡々もあれば、波乱万丈のものもある。
そういった平凡を信奉する声は多いですが
実際にはその退屈に辟易してる人も多いものです。

幸せと不幸せ

それはまったく個人的なもので
他人には見聞するドラマの良し悪しでしかない。

商業作家でも、そういった自叙伝的作品を
ライフワークの一環としているひとたちもいます。

宮尾登美子の『櫂』『朱夏』『春燈』『仁淀川
宮本輝の『流転の海』シリーズ、『泥の河』
梁石日の『タクシードライバー』シリーズ、『血と骨
などなど
西原理恵子なんかもそれですよね。

こういった作品は作り物でない凄みがあります。

激動の時代と環境、それぞれが背負う宿命と
受け入れざる負えない運命に翻弄さててつつも
主人公たちは必死にその流れに逆らって生きる。

がゆえに、ときにはそのために
厄介なことになってしまうのですが、
その踏ん張りの「意気地」というものに
私達は感銘を受けるものです。

こういうものが、
たとえフィクションである小説や映画であっても
私達の勇気のカンフル剤となるんだと思う。

別に当事者はそんな私達のために
踏ん張っているんじゃないですよ。その人の意気地
プライドってやつです。
そういうものを意地っ張りとか意固地とか見栄っ張りと
いう人もいるけれど、
人間見栄を張れなくなったら仕舞いでしょうし
プライドがなくなったらアウトだ。
よく、プライドを捨てろという台詞があるけれど
あれは言っている視点が違うのだ。
もっと大きなプライドを持てということだ。


一人の個人が生み出す、フィクションとしてのドラマ
そういうものを単に「作り物」と笑うことはできない。
そこには必ず、その作り手の経験からの思想があって
そのうえでの出来不出来がある。

わたしには
フィクションとノンフィクションの
線引きのボーダーがさだかではありません。
ノンフィクションの体裁をとりつつも
そこに嘘がある場合は多いですからね。
それに、その真実とやらも
はなはだ疑わしいものだったりするものです。

宮尾登美子の『櫂』から

櫂は三年、櫓は三月。

私達は大なり小なり人生という海を
往かなければならない。
小さな小舟にのっている。
櫂は三年、櫓は三月。
どうしても手軽にあやつれる櫓を手にする。
それはそれでもいいけれど
それを手放さない。
櫂を手にしようとしない。

そこに無理が生じるのだと思います。