あかんたれブルース

継続はチカラかな

老人さえも釈然としないこと



そういうわけで
テンション低いのですが、思ったことは
忘れないうちに書いておかないと
二度と思い出せなくなりそうだし、
いつポックリいくかわからないので、記しておこおっと(涙)。

昨日、元国会議員から
石原慎太郎についての感想を求められた。
石原さんに対するマスコミの賞賛が釈然としないようです。
(石原さんは批判も多いがその逆も多い)

だいたいは先日このブログで書いたようなことを
話しました。
しかし、石原さん永田町でも評判が悪いなあ(笑)。

ま、石原さんのことは横に置いて

リエーターというものを表現する言葉に
「子供がそのまま大人になった」というのがある。

このクリエーターは創造創作するものです。
だからカタカナ職業だけではなく
モノづくりに携わるわけだからすべての人にいえるわけだ。
専業主婦だって立派なクリエーターです。
子育ってだってそう。
国を作るという意味で官僚や政治家だってクリエーターだ。


子供がそのまま大人になったような、という表現を考えれば
それは子供ではなく、あくまでも大人ということだ。
子供は想像力はあるけれど、クリエーターじゃない。
ここのところがひとつのポイントです。

子供は好奇心はあっても、それが故にあっちこっち気が移り
飽きっぽいものです。
大人と子供の違いはここにあるんじゃないかと思う。
良くも悪くもね。

視点をかえて、プロとアマについて考えてみたい。
よくその違いがテーマになるときに
「お金を稼ぐ」云々が答えとしてでます。
まあそれもそうだけれど、それだじゃあ物足りないんだなあ。
お金を稼いでプロの名刺を持ってる人で
とうていプロといえない人はたくさんいる。

わたしが思うに、その違いは最後まで成し遂げるかどうか
その根気とか魂胆とか姿勢にあるのではないかと思う。
責任感とでもいうのかな。
無責任なのはプロじゃない。
自分に対しても仕事に対しても(他)人に対しても

これが子供と大人の違いじゃないだろうか。

各業界で、プロが少なくなったと嘆かれて久しい。
これはクリエーターの特性といわれる
「子供がそのまま大人になったような」ではなく
子供のままの大人の増殖なのであり、
無責任な大人が社会に蔓延している事象を表しているのでは
ないだろうかと、思う。

そこで話はまた移りますが、
表現するということを考えてみたいと思う。
モノを言ったり書いたりすることはある意味で
恥を晒すということでもある。といわれます。

どこまで自分の意見に主張に責任を持てるものなのか
これはなかなか難しいものです。
がゆえに、玉虫色になってしまうことが多い。
また揚げ足や言質をとられないようにという配慮から
煮え切らない発言も多い。

がゆえにだからでしょうが
私達はいつしか歯切れによい白黒きっぱりした発言を好み
それを支持します。当然反発もあるとして。

しかしだ、その発言者は事の良し悪しに関係なく
どこまでそれの言動に責任をもてるものなのか
できないまでも、その覚悟があればまあいいと思う。
そんなもの誰もわかりませんからね。

ただし、その覚悟とは別に、手法や論法として
手口としてだ、強気の発言をする者は多く、
またそれに喝采をおくる者も多い。

たんなる張ったり屋になってしまう場合は多い。

だから表現者はどこかで謙虚であり
フェアであるべきなのだと思う。
それは他者を怖れるのではなく、自分の驕りを怖れるためにも。

石原さんは政治家になるまえは
作家として、表現者として、プロであったわけです。
まるで子供がそのまま大人になったような人である。
彼のなかには正義や大儀があって
そのためには些末なことは小事であって
そんなことはどうでもいいと切り捨ててきたのかもしれない。
まるで子供が次の玩具を目にして心が移るように。

彼にとって、青嵐会もそういう類のものだったのかと。

そして恨みをかっている。
これは不徳のいたすところの何者でもない。
たとえ、みんなが毛嫌いする政治家達の恩讐であったとしても。

太陽の季節
それはたんなる未熟な若者たちの張ったりの記録だったのか?

わたしは、政治家が良い人でなくてもかまわないと思う。
だからマスコミが騒ぐおばさんみたいな論調はアホみたいで
まったく興味がありません。

政治家は法案をまとめ法律をつくるクリエーターなのだ。
と同時に国民に対する伝える表現者でもある。

プロとしてちゃんと仕事をしてくれたらいい。

それだけです。


(今日の名言)

俺達は天使じゃない

1955年のハンフリー・ボガード主演映画のタイトルから