あかんたれブルース

継続はチカラかな

やさしく愛して

生きること死ぬこと愛すること(7)


任侠世界では男で生きたい男で死にたい
と唱えます。
生きることへの欲求と死ぬことの欲求
要はカッコよく生きて死にたいわけだ。

じゃあカッコよくってどういうことだ?

「ここは俺がなんとかするから
 お前達ははやく逃げろ!」

「でも馬ちゃん」

「俺のことはいいから早く行け」

なんてね。マジそういうのに憧れるよ。

女性陣にはアホかと思われるでしょうが
男にはそういうロマンがある。

普通の神経があったら
ときどき死にたくなるものだ。と思う。
そんなこと言ったり書いたりすると
「馬太郎さん大丈夫ですか?」と
なんかお為ごかしに袖を引く

ほっといてくれ。

わたしはフロイトは好かんけど
リビドー(性的欲望または性衝動)に発動される
という、「死の欲動」なんだろうなあと思う。

人間が生きるうえで、自我というものは
切っても切り離せない。がゆえに
思い悩み苛まれるわけで
この自我なるものを無我に転換させようとする。
瞑想なんかでそれを得ようとする。
断食したり苦行の修行で成し遂げようとする。
即身仏に直行なら別にいいけれど
要は思い込みが関の山。
悟り云々をいう奴は大嫌いです。

これまで延々と
セックスの話を展開させてきましたが
これこそが性的な死の欲動なんだと思う。

「これ」って相手を見出して
それを受け入れる。
このとき自我が必然とどうでもよくなる。

自分<相手

という図式だから
その相手が大事なんだな。
必然的に自分より清らかなものである。

同化したいという欲求は己の死を意味する。
自我からの解放だね。竹脇無我だ。
でも同化する相手が愛するものであるから
なんの不安もない。むしろ憧れる。

男は、その女性の体内に宿りたいのだ。
女は、その男性を体内に宿したい。
二人でひとつになる。
もともとが不完全なものである個人が
このときはじめて完成される。

至福の恍惚だ。

それは生の達成であり、同時に死である。

その瞬間、完全に死ぬわけだ。
自我からの解放がある。
この自由を望んでいたわけだ。

でも本当に死ぬわけじゃないよ。
それは臨死体験であり、蘇生する。
これが「生」→「死」→「生」の循環です。
蘇生したときに生きている歓びを噛み締める。

みゆき嬢の歌にこんなのがあります。
わたしの子供になりなさい
http://www.youtube.com/watch?v=JPpHNQZZROE&feature=related

人間にはそのときの記憶があるのだ。
遠い昔、母親の胎内で過ごして
あのやすらかなときの記憶が・・・
それを求めている

そう考えると、女性ってやさしいものだねえ。

そういうわけで母性を求めて
本日も団地周辺を彷徨ってきます。
オーマミマミ♪


涙を見せてはいけないと教えられたのね
そんなことない そんなことない 
そばに誰がいるのか次第
男には女より泣きたいことが多いから
あなたが泣くときは わたしは空を見よう
あなたが泣きやめば ふたりで空を見よう

もう愛だとか恋だとかむずかしく言わないで
わたしの子供になりなさい



Love Me Tender