あかんたれブルース

継続はチカラかな

清張の濁ったコンプレックス

生きること死ぬこと愛すること(6)


うがった見方

という言葉には、悪意と真実に肉薄するという
二通りの意味があるようです。

「ねえねえ見て見てあの人キレイ」

「どうせコラーゲンでしょ」

は、どっちかな?悪意30対真実70ぐらい?

ケースバイケースなのでしょう
コラーゲンが美容整形となるとかで嫌味は増すし
またどう見ても厚化粧若造りというのもある。

「ワタシが証明です。くるりんぱっ」
ってカワイ子ぶりっこされても放屁が関の山。

しかし、最近の新聞、テレビ、週刊誌などの
メディアや有識者評論家などはこの穿った見方を
売りにしている。
穿ってもいいのだけれど、はたしてそれがどこまで
真実に肉薄しているか、まったく関係なく。
とにかく、際どい毒を発することに価値がある。
という無責任時代全盛期の様相だ。

素直に褒めたらあんた最後、
アホ間抜け呼ばわりされる。
世の中には必ず裏があって
色と金の欲で綴られている。
これが現実だとされている。

だから、わたしが昼下がりの団地に近づくと
過剰反応してぴーぴー笛吹いて
警察に通報するなよ(涙)!

不信の時代です。わたしは不審者じゃない(涙)。

結局、誰も信じられなくなってしまった。
わたしはそういう風潮の元祖下手人は
松本清張だと思うけどね。
清張はあまりにもこの世のどす黒い闇を見すぎてきた。
この間の記事に
戦後日本はGHQ政策の呪縛に侵されている
としましたが、松本清張の呪いにも縛られてると
わたしは思う。

フィクションとノンフィクションは
断然、フィクションは馬鹿で
ノンフィクションは賢いとされているけれど
はたしてそのノンフィクションがどこまで
真実なのか?さっぱりわからんのが現実だ。

恋する、愛する、恋愛は
はたして、フィクションかノンフィクションか?

恋愛なんぞというもに穿った見方なんてものを
持ち出したらその時点で一発でアウトだにゃあ。
だから、恋とか愛とかのたまう者はアホという
刻印を押されるわけだ。

焼け焦げる愛の刻印。いいねえ(汗)
わたしは全身刻印だらけの島流し
愛の流刑地流罪確定希望です。
現在執行猶予保護観察処分中の身の上。
団地妻の脅威の危険な男だぞ、ピーピー!

世の中を斜にみてばかりいると
本質を外してしまうものです。
様々な角度からみて、立体的にその本質を捉える。
洞察力とはそういう力であり、
愛もまた例外ではない。決まった(汗)