あかんたれブルース

継続はチカラかな

2013年にむけて



昨日、NHKアーカイブ筒井康隆
『七瀬ふたたび』(89年少年ドラマシリーズ
をやってました。
人の心が読める超能力者の話
どこか妖怪人間べムを彷彿させる
マイノリティーのお話だった。

七瀬と同じ能力をもつ少年と
予知能力のある青年が乗った列車が転覆事故を
起こすのを察して、脱出するという第一話。

無論、そのことを乗客に訴えるのだけど
誰も信じない、相手にされない。
で、結局三人だけが下車するわけなんですが・・・

・・・考えるわけだ。

人間は相対的に物事を考える。
相対的とは比較するってことです。
自分と他者とを
そのときの基準は自分です。

自分より上のものと比較すれば
羨望や嫉妬、劣等感が生まれ
自分より下のものと比較すれば
優越感が生まれ、また哀れみや同情もわくだろう

ただ、自分の足場の位置はわからないものです。
自分のことばかり考えているから
視界がせまくなっていく。
闇の中に棲むようになってしまう。

昭和三十年代の日本人は
みんなが幸せでないと意味ない
と考えていたそうです。

敗戦からまだ十年そこそこで
みんなどん底だった
からなのかな?

でもいまはみんな一緒じゃだめなんだ。

自分だけ、自分だけは、
そうじゃないと意味がない。
比較できないからだ。

だから、七瀬たち三人が助かったのと
列車が転覆しないでみんな無事だったのでは
意味が違うんだろうなあと思ったわけだ。

事故が起きないほうがいいに決まってるのに
事故があってこそ幸運の喜びがある。
そこには自分だけは助かるという前提があるのですが
いったいどこからそんなムシの良い発想になるのか。
また三人のラッキーと百数十名のアンラッキーを
算数的に比較してもみんなが助かったほうがいいのに
それだとラッキーさんの意味ないみたいです。

わたしたちはそういう平穏なラッキーさんのなかにいる。
でもほとんどの人がそれをかえりみない
平穏はただただ垂れ流されていき
やたら比較ばかりしては一喜一憂している。
青くなったり赤くなったり

他人の不幸は蜜の味、なんてことをいう。
たぶん今さっきできた言葉じゃなくて
戦前からあるんでしょう。

でもさ、そういうものを恥とした
感性を取り戻してほしいなと思うわけだ。
そう在らねばならない、というものではなくて
そうしないとつらいよ。

そこに個の肥大があるからだ。
どろどろとした溶岩のようなものが
己の器から溢れ出て呑みこんでいく。
みんなが他人の不幸でしか自分の幸福を確認できない
そんな世の中だと、そんな世の中は、
不幸の想念で染まっていくに決まってるじゃないか。

それを本能とか性という莫迦もいるけれど
人間は本来そういうものじゃない。

共通して、みんな幸せになりたいと思っている。
であるならば、まずそういった呪縛を断つことが
先決だと思う。
そういった発想に支配されている以上、
まず絶対に幸運など引き寄せられない。

これが当然の自然の摂理だというところで
2012年の馬太郎ブログはお仕舞いです。
来年はお互い良い年にしようね。
一人でも多くそう思えば思うほどそのぶん良くなるよ。