あかんたれブルース

継続はチカラかな

苦いさとうきび

愛のメンタリズム(6)


先週の成人式の大雪の日から数えて
いくのかの出来事が重なって
考えさせられる日々のなかにある。

それぞれにはまったく関係性のない
ことなのですが、なんか根っこは同じ
ような気がする。

それもあって、
「とんでもない誤解が流布され
 それが定番化している」と
現在の一般常識の変を訴えるわけですが

ルイ隊長曰く
「そんなこといってもほとんどの人がわからへんよ」
とさびしいことを宣まうのだった。

いじりやすいところから
今日の説教部屋はかおりくんです。

彼女愚痴るところの
学問という言葉を持ち出して
「おん年、50にして、 学問が続けられるものか?」
と、立ちすくんでおられる。

そんなことないよ。たとえば、
と具体例などあげて諭せば
それは馬太郎だったらできるだろうけれど
と、なんか特別なことのようにいうだよ。

学問などと時代がかった表現を用いなくても
学ぶこと、知ること、考えることは
苦行ではない。
また、それを代価として何かを手に入れるという
手段と直結させるのも動機からして無理がある
と思う。

学習することは、楽しいことだよ。
わからないことに合点がいったりすると
嬉しくなって楽しいものだしねえ。
またそういったものの点が線で結ばれる
ダイナミズムは感動する。あれこそ証だ。

教育とは、教えて育むものだ。
学ぶ側からすれば、教わって育まれる。
自分自身を養うものです。修めるでもいい。

それは一生続くものだと思う。
勉強ってものは基本独学ですからね。

つまりは、人間の人生とはこれに尽きるわけで
なにをどこまでやればいいとかいうものじゃない。
もしそういった時点でピリオドが打たれれば
そこでその人の人生はお仕舞いってことです。

学ぶにあたって、読書というのは
とても効果効用のあるものだ。

ところが、これを否定するというか
背をむける人も多い。
うり坊だけなら話は別なんだけど
これまでも、名前は出しませんがたくさんいました。
苦手という意見には「慣れだよ」でいいのですが
あたかも、本を読むことで
「穢れる」みたいな大義名分をうちたてる者もいる。

そりゃねえ、良書だけじゃない。
また、そういった知識をひけらかす輩も多い。
下手にそういうものに慣れ親しんだが故に
ああいった連中の仲間になりはしないかと
ビビる気持ちもわからないではないけれど
それはまた自分次第ですから、
それを理由に知識や読書を否定するのも変だ。

教養を身につけることが
ピュアな精神を風化させてしまうことには
ならない。むしろ逆で
現実世界の塵芥のなかで、自分自身を貫くのに
そういった教養が助けになるものです。

どっかの学校の朝礼のスピーチみたいですが(汗)

コクリコ坂から森田童子
氷室冴子海がきこえるまで
なんというかつくづく
今の若者たちのレベルが下がってる
知性も感性もすべてが。
そして大人になり親になっていくわけだ。
子供はいい迷惑だよ。
親は選べない宿命ですからねえ。


そのもっとも顕著なものが
「やさしさ」というものの本質の捉え方だ。

そういうことを言うと
「やさしさに基準なんてありませんよ」
と混ぜっ返すけれど、基準はなくても
真贋はあるはずだ。
百歩譲っても、真価はあるだろう。

キレイ事のハッタリだけじゃあ
イザとなったらドン引きなんじゃないのか?
「仕方なかったんですう」
と弱さを言い訳にするなよ。
それを人質にするなよ。

それは、誰のためとかじゃなくて
個人的な問題だと思う。
そういうのが大事なんだ。