あかんたれブルース

継続はチカラかな

モラハザ



友人からこんな問いかけがあった。

http://blog.livedoor.jp/mental_xx/archives/6378942.html
http://rikonblog.re-date.net/morahara/

わたしは頷きながら、別なことを考えてしまう。
このモラルハザードは特定の人たちを
指摘するものではなく
わたしたちすべてにいえる恐い罠だと思う。

人間というものは自分を中心に、基準に
ものを比較したり考えるものです。
この場合、その個人の世界観、価値観、相場観
によって白いものも黒くなる。
みんなが同じようには感じないのだ。
雨上がりの美しい虹も人によって
様々なのだ。

それでいいじゃないかという人もいるけれど
それでいいなら別にいいけれど
それじゃ色々支障が出るから問題なわけで
加害者である当人も、また
それによって迷惑をこうむる人たちも
みーんな幸せから遠のいてババを踏む。

ここに人間関係の力学が存在します。
強いもの弱いもの
この強いものって本来の強さとは異質なものです。
むしろその正体は弱いものだと思う。
その弱さを力によって行使し、
周囲を相手を支配しようとする。

また、その受け手側もその支配を求めていたり
するから、厄介は拡大するんだと思う。
それを優しさというにはあまりにも痛い。

そんなのちっとも優しくないよ。

ただ、そういうのをきっぱり白黒つけられない
ところが難しいんでしょうけどね。

要はバランスなんだと。
そのバランスをとるのが難しいわけだ。
時間軸だのタイミングだの相性とか個人差もある。
第一に自分自身をハンドリング、コントロール
することも至難です。
ついつい自分の都合の良し悪しで判断しがちなんだな。

易経ではそれを第一の主旨として
「身を修める」として厳しく戒めている。
修身というものですが、
これが戦前の修身教育の一方的な批判論調風潮から
まったく用いられなくなってしまった。
「道徳」の失墜もそれです。
下手すると右翼とか国粋主義なんて罵倒されてしまう。

でもさ、結局野放図に自由を盾に猛進した結果が
いまの社会状況なわけです。

自由自由と叫び自由を人質にして
正義を訴えるけれど
わたしたち自身が自由に振り回されて
そして恐れ不安視して、不自由を求めている。

それが上記した力の支配を求める心理と
力を自ら行使して支配しようとする心理だ。

なによりも自分自身ってものが
信用できない、いいかげんな代物だってことです。
人間ってものを過信しちゃいけない。
友情も愛情も一発で木っ端微塵
もしくは奈落に
一直線。
他人事じゃないんだぞ。