あかんたれブルース

継続はチカラかな

メディアリテラシー



ここ最近メディアリテラシーという言葉を
よく使っている馬太郎です。
簡単にいえばマスコミなどの情報を読み解く力

わたしたちは現在のマスコミが信用ならない
とよくネットなどで話題にします。
ホントそうだと思う。
またマスコミに登場する有識者たちの発言も
首を傾げることが多々ある。
ただ難しいのはだからといってすべての情報を
疑って、否定してかかるのもね、それもできない。
だからこそメディアリテラシーは大事なんだ。

それを身近に感じたのはネットやブログの
主張や意見の内容です。
先月23日でブログ開設から8年目に突入しましたが
そういった違和感は開設当初からあったし
それ以前、2ちゃんねるなどの発言に辟易してもいた。
特に近現代史とか時事政治ネタなどはひどい。

これは、マスメディアだけでなく
わたしたち一人一人が発信者となったことと、
そこに匿名性という性質があるから
なんでしょうね。

それもあって
ここでも何度もそういうのを記事してきました。


ある友人から聞いたネットの話なのですが
とある日本人が中国の貧しい地域に
小学校を十数棟建てて寄贈したのだそうです。
しばらくたって(最近の話なんでようが)
それを視察に行ったら
そこの子供達に石を投げられた。
「日本人は出て行け!」と。

なんとも切ないというかニガイというか
つらい話です。
そのとき別な苦味の思いが頭を過ぎった。

そういう話に対して
『それはそれだけのことを
 日本人がやってきたからです』とか
いう連中が必ずいるよな。

友人はまさしくそうで、実際そういう
コメントがあって愕然としたという。

そういうこととは日本の過去の戦争責任のことだ。
わたしは大東亜戦争を聖戦だったとは思わないし
支那事変(日中戦争)だって馬鹿な戦略だと思う。
日本人としてとても恥しい歴史上の失敗だ。

しかし、それとこれとは話が違う。
(この言葉はこういうとき使うんだね)

だいたいこういう戦争の話になると
必ず最後に「日本の過去の過ち」を押さえにして
話を締めくくる。これひとつのお約束であり
大事な予防線のようなものです。
そうしないと、「戦争を美化するのか!」と
反発・攻撃されるからだ。
そういう慣例がよけいに「過去の過ち」を
増長させてしまっていると思う。

石を投げた中国の少年も
それは当然の報いだという日本人も
教育やメディアの風潮・在り方に影響されている。
また、『感謝されるためにやったのか』
などとオカド近いなツッコミを入れる馬鹿もいる。
なんとも情けない話だ。

ものを言ったり書いたりすることは
ある意味で恥をかくとでもあります。
色々な意見はあってもいいけれど
そこのところをしっかり覚悟していないといけない。
それは発する側だけじゃなくて
それを批判する側にも賛同する側にも
いえることです。たとえ匿名でも。

『そんなことを言ったら何も言えなくなる』
なんて馬鹿なことを言う馬鹿がいる。
自分の意見や言葉に責任を持てということに
なんでそれが言論の自由を阻害する
みたいに受け取るのか?
わたしにはさっぱりわからない。
言論はすでに暴走しているじゃないか。

そういう相場観(基準把握)がないのも
メディアリテラシー能力の機能不全なんでしょうね。