あかんたれブルース

継続はチカラかな

机上の空論の罠



本日はちょっと真面目な話
「いつもは真面目じゃないのね!」
ではなく(汗)
テーストがちょっと違いまんねん。

人間の苦悩についてだ。どっかーん

私たちはこの苦悩というものを事の他
忌み嫌うものです。
ただ、ほんの三、四十年以前までは
その苦悩がオシャレだった時代もありました。
ポーズだったかもしれないし、流行だったかも
しれないし、うすっぺらだったかもしれませんが
ある程度は容認されているものだった。
それは同時に日本人の知性の地盤だったといえる。

でもトレンドであれば時代と共に変容するものです。
いまではすっかり流行らない。
そんなものはダサイという風潮が生まれた。
提唱者たちは辟易してたからだと思う。
それはそれで納得はできる。

もっと明るくもっと陽気にもっとポジティブに
膨れ上がってバブルとともに弾けた。
のだけれども、苦悩を忌み嫌う性癖はそのまま継続。

ただ、苦悩というものを即マイナス要因とするのは
どんなものかなあ・・・と思いましてね。

人間は犬猫畜生ではないのだ。
本能だけで生きてるわけじゃない。
だからそこに苦悩もあるだろうし
苦悩は人間の証であるともいえる。

従って、苦悩を必要以上に弊害と捉え
回避逃避することはどんなものなんだろうか?

人間の苦悩の原因は嫉妬、自他共にある嫌悪、不安
からだと思います。
これは人間がモノを考えるときに相対的に考える
つまり比較して考えるからだ。
そういう癖をなくせば解決できる。
これを中論とか申しますが
それは二、三世紀頃に解明されていた真理です。

でもさ、たとえ原因がわかっても
解決できないことは、たっくさんあるわけだ。
禁煙、禁酒、ダイエット、浮気などなど
それを煩悩といっても
それがどうしたと開き直るのが関の山。
ましてや規制ではどにもならない。

こういう苦悩のしがらみから解放されようと
悟りを求める人も少なくないけれど
わたし的にはレイシストとそう変わらない
差別主義者であって自分のことしか考えない
脳タリンにしか思えない。とういうのが
正直な肝臓です。

そこに、苦悩というものの在り処を
自分のなかだけの苦悩とするかどうかで
考え方も変わってくるとも思う。

自力他力の考え方でもありますが
人間がどんなに頑張ってもどうしようもできない
ことはある。それが現実であり
そこに信仰や宗教が生まれる。
そういうものは人間を超越するものを意識する
ことから生まれたアイデアでした。

どんなに頑張っても、というと
すべての努力を否定し、他力の発想を
貶めることになっていますが、そんなことじゃない。
運命論を信奉させる手口にもなりえるでしょうが、
そうではなくてさ

どうにもできない苦悩とは
自分の苦悩ではなく
自分以外のものの(に対する)苦悩なのではないか。
とね、しみじと思うわけだ。

はやい話が自分自身の苦悩なんて
自分のことなんだから中論でも空論でも
他力でも我慢でもなんでも自分の思い込み
心がけ次第なのだから
やろうと思えばどうにでもなるわけです。
できるかどうかは別としてもさ。

問題は自分以外のものの苦悩じゃないか、と。

苦悩の本質はそこにある。

「そんなのわかってどうするの?」

それがわからないと苦悩の呪縛からは
解放されない。
これを抜きに中論を説いてもそれこそ空論で
ご都合主義や自己中心論の域はこえない。

あのレイシストたちと五十歩百歩でしか
ないとわたしは思います。
苦悩というものを即厄ネタとするのは
そういう落とし穴、罠なんだと思うし
それは人間の驕りでしかない。