あかんたれブルース

継続はチカラかな

『火垂るの墓』は二度と観れない(2)

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 息子が生まれる頃ですから8年前ぐらいですかね。
 埼玉の川越かどこかで3歳の女の子供が餓死したことがありました。
 母親は所謂「シングルマザー」で、生活保護を受ける手だてがわからず、有り物のソーメンなどで
 飢えを凌ぐまでに陥り、最後にはそれも尽き、電気の灯らない部屋で母子ふたり添い寝していると
 幼い娘が傍らで小さく囁いたそうです。「おかあさん おなか すいたよ」
 その一部始終を事件発覚後にレポーターに語る、この母親。
 そこまで事情や過程は別として、無性に腹が立ちました。

 二年ほど経って、私の住む町の駅に続く遊歩道の公園に幼い女の子と母のホームレスがいました。
 幼稚園にあがる前の3~4歳ぐらいだったでしょうか。薄汚れたセーターを着ていましたが
 昨夜の雨に使った傘をオモチャにして遊ぶ姿を目にしたときは、つらいものがありました。
 毎日の通勤の度のことなので気になって気になって仕方がないのです。
 でも、どうしていいのかがわかりません。
 ああ、今日はいないで欲しいなあ。と自分の都合ばかりで、ダメで無力な私です。

 しばらくすると、その母子は本当に何処かに消えてしまいます。
 それから姿をみることはありませんでが、ホットする反面、どうしたかなと
 それはそれで気になってしまうものです。

 浅田次郎と共に「女たちのジハード」で直木賞を受賞した篠田節子は立川の公務員で
 医療福祉関係を担当していたようです。その短編集に(著書名を忘却)
 社会保護を適応するもでの件が詳細にストーリーに織り込まれている作品があります。
 私がそれを読んだのはふたりの母子がいなくなった後でしたが、お節介でも
 その知識があれば、あのときに近くの区役所の出張所に出向くくらいは、あの頃の動揺を思えば
 そう難しいことではなかったように思えます。私のダメさかげんには変わりはないのですが。

 知ることは大切であり、知識は重要です。できれば、その知識を行動に結びつければ
 と痛感します。
 このことが切っ掛けだったのだと思うのですが、自分の中である変化が生まれたようです。
 その後、幸か不幸か生活と仕事の環境が180度、変わりました。
 息子が誕生してから毎年の誕生日に彼へ宛てた手紙を書いています。
 「1歳の息子へ38歳の父より」と始めてから今年で8通目の封筒が保存されます。
 「知識を伴わない行動は蛮勇であり、勇気を伴わない知識は無意味」とかは
 その頃に書き記したと思います。

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(余談だが、とは言わない)

 明治の辛口ジャーナリストの人物評伝に当時の政財界軍人を木っ端微塵に批判した書物があるそう
 です。そのなかで唯一例外だったのが八代六郎という海軍軍人でした。
 八代は広瀬武男と秋山真之の先輩であり上官であり「友」であった人物です。
 海軍に入れなかったたら「博徒(やくざ)」になると決心して愛知県から上京してきた熱血漢。
 日露戦争では仁川海戦に向かう「浅間」の艦上で、尺八を奏でる艦長として有名です。
 少々オッチョコチョイなところもありますが清廉で立派な人でした。
 日露戦争で戦死した部下の子供たちを引き取って育てたエピソードもそれを裏付けているですね。