あかんたれブルース

継続はチカラかな

秋深し隣の柿は渋いに決まってるか?

エポニーヌを探して(3)


塩野七生曰く
「遠まわしに言ってもわからない人に
 ストレートに言うと・・・恨まれるだけ」
だそうです(笑)。
だから、あきらめなさいと。とほほ
厳しいねえ。

最近なにかで読んだんだけれど
それがなんだったか思い出せないのですが
聖書の「はじめに言葉ありき」から引用して
言葉がすべてであるということを述べていた。
つまり、
その言葉がその人そのものであると。
どんなに(誤解であると)弁解しても
一度発せられた言葉はその人そのものというわけ。
これも厳しい真理だ。

わたし自身は
物を言ったり書いたりすることは
恥をかくことである。という言葉を
座右の銘のひとつにしています。
無論これは言動すべてにいえることです。
そのうえで、
映画『扉をたたく人』から
人が人と接する、関わりあうと
そこに必ず厄介が生じる。
ということを改めて確認したものでした。


莉栖子は人付き合いが苦手です。
どちらかというえば人間ぎらいの質だと思う。
それは彼女が偏屈というよりも
臆病なせいなのだ。
人間が恐い、それはまるで小動物のようですが
それを隠すために普段は気難しい山猫を演じている
だけなのです。

「そんなものさ」が彼女の口癖でした。

それが痛くてねえ
まあそればっかりでもないよと
口説いてようやく少しは耳を傾けるようになった
それでも「わからない」が先にたつ。

人付き合いを避けてきた莉栖子は
経験や学習が未熟なのだ。
間合いの取り方、駆け引きが苦手です。

確かに、他人の気持ちはわからないものです。
わかったつもりでいい気になってると
とんでもないしっぺ返しをくらうものですからねえ。
期待すればするほど裏切られてしまう
だから決して心を許してはいけない。
世間知として
これもまた大人の処世なのかもしれない
けれども
はたしてそれを莉栖子にどう伝えていいのか
わかりません。

莉栖子以上に
察することのできない人たちが多すぎる。
その絶対値が明らかにバランスを崩している。
それはネットであろうがリアルであろうが同じ。
仕事柄、年齢的にも、様々な人間と様々な場で
そういう経験を重ねてきました。
ときどき唖然とする言動に直面することも
多々あります。

なんで彼はこういうことを漏らすのか?

その場を離れたときのたそがれに
まるでFBIの心理捜査官にでもなったように
様々な材料をもとに推察していく
わかるわからないは関係なくとも
そういう考える作業がとても重要なのです。
そういう営みを反復することが
自分を見失わないための、わたしにとっての
唯一の手立てなんでしょう。
「そんなものさ」で結論づけてしまえば
簡単なのでしょうが、それじゃあ淋しすぎるよ。
なにかそういう理由がきっとあるんだろう。
導き出したその結論が
正しいとか正しくないないとか
それはあまり関係ない。

そういうわたしを
莉栖子はきっとインチキ臭い世間師と
感じることでしょう。

そうみられることに対して
正直なところすこし淋しくもある。
それでも
あまりにも無防備な莉栖子の姿勢に
いつもひやひやはらはらさせられるのです。
それを誤りだと諭すものもいる。
自立の邪魔になるという。
正論です。

実は、わたしはそういう正論に
なんの価値も見出さない人間なのだ。
正論などというものは
ヒントにはなるかもしれないが
それ自体にはなんの力もない。
そんなものは掃いて捨てるほどある。
そんなもので他人は決して納得しないものです。

大人になりきれない莉栖子
いやなりたくない莉栖子。
そして、いつの間にか年老いてしまった自分。

マダム・ジーナのため息がちな台詞が過ぎるよ
「どうやったらあなたにかけられた 
 魔法がとけるのかしらね」