あかんたれブルース

継続はチカラかな

古今東西の普遍的な愛欲

I&U研究所(残酷な話-9 ロリコン


三日四日目だったか
オードリー祭のフィナーレなのか『いつも2人で』
をやっていたので、ちょっとだけチラ観
1967年の作品だから『ローマの休日』から
ほぼ十四年・・・乙女も38歳
大人の女性です。
そのギャップはメイクのせいもある。
ファッション同様にメイクにも流行がありますからね。

役柄、ファッション、メイク、時代性・・・
そういった演出にも関わらず
かわいいのではあるけれどね。

ハリウッド映画、映画史全般を通して
それを代表するキャラクターをあげよというならば
ボギーとジミーとマリリンとオードリー
あと・・・ミッキーかな
厳密にいえば、四人と一匹だ(汗)
ハンフリー・ボガードは大人のかっこよさ
ジェームス・デーンは青年の繊細さ
マリリン・モンローはセックスシンボル
オードリー・ヘップバーンプラトニックラブ
それぞれが象徴となって現在でも様々な媒体で
イメージキャラクターとなっている。
これは男子の縦軸で女子の横軸で
対極に位置するのではないでしょうかね。

オードリーとマリリン
=キュートVSセクシー
プラトニックVSセックス

したがってオードリーの作品でセックスをイメージ
するものは皆無です。
娼婦役の『ティファニーで朝食を』でさえも
原作のヒロイン像を
彼女のキャラがねじ伏せてしまうほどに。

実はこれって、愛の煩悩が
日本人だけではないってことの証だ。

オードリーの『ローマの休日』(1953年)から
『暗くなるまで待って』(1967年)の主演作を
リストアップして、その共演者をチェックすると

+13歳●グレゴリー・ペック1916年生 
+30歳●ハンフリー・ボガート1899年
+12歳●メル・ファーラー(元夫)1917年
+24歳●ヘンリー・フォンダ1905年
+29歳●ゲーリー・クーパー1901年
+30歳●フレッド・アステア1899年
-3歳○アンソニー・パーキンス1932年
+13歳●ピーター・フィンチ1916年
+16歳●バート・ランカスター1913年
+1歳□ジョージ・ペパード1928年
+1歳□ェームズ・ガーナー1928年
+11歳●ウィリアム・ホールデン1918年
+21歳●レックス・ハリソン1908年
-3歳○ピーター・オトゥー1932年
-7歳○アルバート・フィニー1936年

●が年上、○は年下としましたが
圧倒的に年上の相手が多い。
それもかなり年の差がある。
ここに彼女の女性というものを封印する演出があり
共演者は紳士として彼女をエスコートする
役割を担ったというわけですね。
たとえそれが名うてのプレイボーイであっても

最近は加藤ちゃんなんかの年の差婚なんかが
結構流行で認知もされてきてるようですが
なんせ娘と同じ年とか父親と同じ年みたいな
微妙な関係なので恋愛もタイマンは張れないような
そこにある不文律がプラトニックな関係の正体
とまではいわなくともヒントの糸口
にはなるんじゃないのかな?

未熟、未完成なものに対する愛しみは
日本人だけの趣味かと思いきや
そうでもないんですね。
それをオードリーが立証してくれたわけですが
はてさてそこがストイックな恋愛の大問題。
無論、オードリーだって結婚し出産もするのだが
そういう問題じゃなくて、心の問題として。
結局それを咀嚼しきれないままに
割りきる力業で私たちは納得させてきたと思う。

作品で、ボギーやゲーリー・クーパーのその後
なんてそんな野暮は紹介されないし
続編なんか制作されない。

仕事の鬼、プレイボーイが年貢を納めて
毎日あの可愛らしさに惚けて腑抜けになって
しまったのか?
それとも飽きて・・・飽きるかなあ?
容姿的な可愛らしさだけなら飽きるかもしれない
でもそれだけじゃあないものねえ。
たとえ相手が年を取っても
それ以上に自分も年齢を加速させていく
たぶんそっちの速度がはるかに速く
止まってみえるほどかもしれない。
世界に恋人は永遠の恋人でもあるわけだ。

結局、その若さというものを未熟とするならば
そこから純粋や純情を感じて愛しむわけです。
子に対する親の気持ち
幼きものに対する、非力なもの対する
不器用で、未熟なものの純情や純粋をに対する
守ってあげたいという気持ちだ。

ここに恋愛の愛の二律背反がある。
その第一関門をマリリンとオードリーで
分別することにいったんは成功したかにみえますが
さて問題はその次だ。キスのその先。
現実の神様はビリー・ワイルダーほど甘くはない。
そのマリリンだって、
彼女に対する元夫ジョー・ディマジオの気持ちは
限りなく慈愛に満ちていたではないか。
マリリンは可愛い女でもあったわけですしね。

女房と畳は新しいほうがいいとばかりに
若い女房を娶ったタレントを冷やかすわけですが
『居酒屋兆冶』で大滝秀治
「それはそれで残酷なものであります」と
カミングアウトしていましたっけね。

女性の趣向に老け専というジャンルがある。
そこにはファコンやブラザーコンプレックスなども
あるんでしょうが、要は、
頼りがいがあって包容力があって、やさしい
ということが魅力なんだと思う。
まあ経済力といってしまえば身も蓋もないけどね。

男性側とすれば、それは若さだけではなく
か弱きものを守ってやりたいという欲求だ。
母性に似た父性的な愛なのでしょう。
それはそれで十分成立するものであって
ナイトであることを求める欲求があるわけです。
それをロリコンと片付けられるのは
母親を思う気持ちをマザコンと唾棄されるほどに
ムカつくわけだけれど。

人間には(ここではセックスに限定しても可)
支配したいという意識が働いています。
同時に、されたいという意識もある。
そこには生死観があるんだけれど
そんな難しいこと考えなくなってしまっている。
現代人は生きることしか考えようとしない。
だから手っ取り早く「刺激」と「プレイ」で
割り切ろうとするのでしょう。

私たちはスクリーンに映し出される
オードリーやシャーリー・マックレーンや
ミア・ファローメグ・ライアンの幻影に
魅了される。
だけでなく『バス停留所』のモンローにさえも
想いを馳せる正当な健全な欲求がある。

それが、歪んできてはいないか?

てっとり早く力で割り切ろうする。
その力は経済力であったり暴力であったり
借り物の知性であったりとそれぞれですが
本質を見失っていると思うのです。

オードリー・ヘップバーが君臨した
1950年代半ばから1960年代は、
その原点回帰の時機にあったのでしょうが
結局そっちのほうへは流れなかったわけだ。
彼女の代表作ともなる『ティファニーで朝食を』は
本来はマリリンが演じるべきヒロインだった
それでもオードリーは熱演する。
ムーンリバー
それはロマンチックではあるけれど
不自然な人工的な幻影でしかなかったわけです。

ま、所詮は映画さ

という分別、割りきりがあったんでしょうね。

おかげで、不自由な愛が流布され浸透し
弊害が蔓延している。
他人の恋愛やセックスにああしろこうしろ
なんて野暮をいう気は毛頭ありません。

伝説として、
サブリナは色魔帝王を泣かせた。