あかんたれブルース

継続はチカラかな

煮ても似ても似つかないもの

タカになりたい(8)


中国人を理解するキーワードとして
よく「面子」という言葉が用いられます。
アメリカ人には「独立心」でしょうか
皮肉なことにこれが自分の非を認めない
という現象の理由にもされている。

アメリカ人の独立心はここでは横に置くとして
中国人の面子は別に中国人だけの話ではなく
朝鮮人(韓国人)、日本人にもそれはあり
それをプライドとすれば、世界共通である
別に中国人だけの話じゃない。

先日、寄り合いで
以前躁鬱状態で逆噴射した友人の話題が
出まして、その行為に対して是非が話題となった。
そのとき
わたしは、その是非云々ではなく
彼は体調を崩していたこと
それを周囲が察する注力と対処の仕方に
問題があったのではないかと発言しました。

そこには何が正しいとか間違いとか以前の
私たちの迂闊さ、デリカシーの無さ
があったと思うからです。
後々いろいろ言って仕方ないし
そういうことはもっと反省すべきだと
思うからからだ。
優しそうでまったく残酷な結末になってしまう
こういうことって実に多い。
それをすべて正しい正しくないで決して
自爆した彼の自業自得にしてしまうのが
なんともご都合主義っぽくて嫌だった。
残念なことに
ほとんどがあんまりピンときていなかった。
つまり彼が精神的に正常でなかったことを
まだ理解しようとはしない。
なんでなんだろう?

ここに教職員(ほとんどがOBですが)たちの
社会性の希薄があると思った。
これじゃあ生徒の変化を読み取れないよな。
ある意味で職業病なのかもしれません。
疎いし、麻痺してるのかもね。

一人だけ、察する人がいてこう言ってくれた。
「背負っているものが大きすぎたんだ」

その通りだと思う。

正しいか間違っているか
正論かどうか否か、その矛盾は何か?
理詰めでとことん話せば答えは出るかもしれない。
よく議論を、という大義名分には
そこまで腹を割って突詰めれば、分かり合える
というのがあるのだろうと思う。
しかし、議論じゃ結論が導き出せないのは
そこに個人の利害があり、そのなかに
それぞれの背負ってるものの存在があるからだ。

それがたとえ正論であっても
もしそれを認めたら、その人が背負ってきた
それまでの(人生の)すべてを
否定しなければならない。
それができないのだ。
それは本人にとって自己(矛盾)否定であり
死ぬ事と同じくらい大変なことなんだろう。

「自分なんてそんな大したもんじゃないだろう」
と言えるのは他人事であるからであって
本人には大変なことなんだと思う。

ただし、その背負うものの中身だよね。

最近はバタバタしてて観ていませんが
朝の連ドラ『ごちそうさん』で痛い小姑
和枝がそうでしたよね。
ヒロインめ以子をどうしても認められなかった。
観てない人にはわからないか(笑)

アイデンティティーについて話しましたが
もしこういう背負うものすべてを
アイデンティティーとするならば、これは
つらいよ。
まさに呪縛でしかない。

かといって自分が好きというほどでもなく
ただ、変わるのが怖いのだ。

わたしはグローバルだろうがなんだろうが
中国人の面子を理解できない。

とは別に、人それぞれ背負っているものは
それぞれですが、それが故に不自由する
のであれば、それは悲劇だと思うよ。
それが呪縛というものじゃないのかな。
アイデンティティーなんかじゃない